明治2年8月開拓使の首脳は北海道赴任に先立ち、北海道経営に関する政策について評議したが、「本道ハ四面海ヲ環ラシ貨物ノ出入皆船艦ノ力ニ由ラサルナシ」(「開拓使事業略記」『新北海道史』史料1)という状況であり北海道の開拓には人と物資の輸送手段をどう確保するかが重要事であった。そして開拓使の管轄が北海道を始め樺太、千島と遠隔地を含み、また道内は陸路の交通網が未整備でいきおい海運手段によらざるをえなかったこと、また地方庁・中央省庁という開拓使の二重性から、たえず中央との連絡を必要としたことなどから、開拓使自らが船舶を所有し船舶の交通手段を拡充する必要があった。そこで汽船と帆船を各2艘購入することを太政官に要求した。これに対し太政官の指令は、船舶購入は現在財政多難のおりであり、見込みはないが、兵部省や諸藩に命じて要求に答えようとの大蔵省の見解を示した(明治2年『開拓使公文鈔録』)。そして8月26日に兵部省の管轄にあった咸臨丸と昇平丸の2艘が交付されることになった。昇平丸は9月18日、咸臨丸は修繕を終えた10月15日東京において大蔵省から引き渡された(「開公」5702)。政府からの下付の船舶やこれ以降購入した船舶を開拓使付属船と総称した。
咸臨丸は木製船で長さ約50メートル、625トン、安政3(1856)年にオランダで建造された(『幕末軍艦咸臨丸』)。建造当初は汽船であったが、機関部の老朽化により、開拓使に引き継がれた時点では帆船としての機能しかもっていなかった。一方、昇平丸は同じく木製船、バーク形帆船で船長は約27メートル、安政元(1854)年薩摩藩が建造したものであった。両船は、大蔵省から受領した後、ただちに函館に廻漕され、道内沿岸の物資輸送等にあたった。しかし明治初年の北海道沿岸は灯台の設備もなく、航海条件が悪く、水難事故の多発地帯であったため、最初に開拓使の付属船となった2艘ともに充分に役割を果たすことなく海難事故で失われた。
昇平丸は、明治2年12月24日米穀等を積入れ石狩にむけて函館港を出帆した。ところが逆風のため安渡(現青森県大湊)に漂着し、翌3年1月19日同港を出帆したが、松前沖で再び漂流し、江差の木の子村の海岸で座礁、破船した(明治3年『開拓使公文鈔録』)。
咸臨丸は函館廻漕の際に八戸県への救助米運搬を初仕事としている。3年5月からは、官物輸送の他に一般の荷物、乗客の輸送も行うようになった。明治4年の「内澗町丁代亀井勝蔵扱書類」にその例(小樽行きの便)をみることができる。4年9月19日、札幌への入殖者の角田県(現宮城県)の移民400人を乗せて函館から小樽へ向け出帆した。ところが出帆まもなく気候が急変して泉沢沖で座礁、乗客は全員無事であったが、船体の損傷が激しく廃船処分された(「開公」5488)。政府から回された船舶は草創まもなく失われたが、これ以降開拓使は国内外から新造船あるいは中古船の購入を進めた。