開拓使直営と郵便制度

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 幕末の函館と津軽地方との連絡路は函館・大間と福山・三厩の両航路によっていた。明治期に入ると函館と青森のむすびつきは一層、その重要性を増し、特に明治4年12月に青森が県庁所在地となると急激な成長をみて、北海道への渡航の交通の要衡地として発展しつつあった。また津軽米の積み出し港としても函館と青森の経済上の関連が深まってきた。ところが明治初年の両港は主に和船の運航によっていたので、気象条件に左右されることが多く、風待ちで20日も碇せざるを得ないことすらあった(「開公」5731)。そこで気象に左右されない汽船を導入して青函航路を開設することが考えられたが、その発端は北海道側の事情からではなく、対岸の青森側が汽船による航路開設の必要性を認識したからであった。
 その間の事情は次のとおりである。明治4年12月青森が県庁所在地となり、野田豁通青森県権参事が新庁事務施行に関して政府に建白書を提出した。それによれば同年9月に福山(松前)が青森県に編入されて行政管轄に組込まれ、行政上の連絡の上で交通事情が悪いため、青森港より福山、函館行きの軽蒸気船を備えればこれによって県用筋の便宜はもちろん、旅人、行李の往来にも便利となるので政府で詮議されたい、という内容のものであった。これに対する政府の回答は官費を仰がず衆力協力して金額を募集するようにとの返事であった(『佐井町史』上巻)。このため翌5年2月には県令の菱田重禧が函館支庁を訪れ、航路開設による費用負担などのことについて論議した。函館支庁の杉浦誠は東京出張所に「失費モ不少候ニ付可相成ハ商人中共ニテ致サセ度様ト存候担当スベキ商人サシムキ無之」(「開公」5731)として、本来は民間で行うべきところであるが担当商人もおらず、官としてその必要を認め官営による取り組みの姿勢をみせた。
 こうした動きに拍車をかけたのが全国郵便制度の実施であった。郵便制度は5年7月から実施されたが、これに先立つ同年5月に郵便業務を所管する駅逓寮から開拓使へ青函に何時から汽船を就航させるかとの問い合わせがあり、これに対し開拓使は横須賀で修繕中の稲川丸が完成次第、同航路を始めると回答している(同前)。こうして当初は青森の要請から始まり直接的には全国の郵便網を達成するための駅逓寮からの要請によって開拓使が青函航路を開始することになった。開拓使が中央省庁としての性格を持っていたことの現れでもあった。