さて弘明丸による航海も定日を定めて運航体制をとったものの、時には天候に左右されていたようである。特に中央では付属船による郵船業務は定時往復がなされてないととらえている。それは7年4月の木戸内務卿から黒田次官への通知文にうかがわれ、そのため木戸は通信業務の便利を拡充させ、さらに当年から北海道の全域へ郵便業務を拡大するということもあり、開拓使船の他に郵便蒸気船会社の船も利用して経費の不足分は政府負担とする建議を正院へ提出しようとした。これに対して黒田次官は弘明丸と稲川丸の2船を配置して隔日運航を進めると回答し、予備船舶として辛未、石狩の両付属船をあてるとした。これに対して木戸はいつからそれが実施できるかと迫り、東京出張所と函館支庁間の連絡がなされたが、5月15日付けの杉浦の申達では「稲川丸ハ…青森往復定日相開候トモ風波不穏ノ節ハ航海致シ難ク…弘明丸ハ青森安渡往復定日相開航海致シ居リ候得共是亦驚濤洶湧ノ日ハ迚モ航海不相成夫是定日通リ往復致兼」(同前)とその困難な状況を述べている。
弘明丸船長の蛯子末次郎は弘明丸は河川用の汽船であり冬期間の青函航路の航海は容易ではないとし、さらに稲川丸(バーク形の鉄製汽船で15トン、25馬力、1861年清国で建造、積石300石、乗客数2、30名)も同様であることが勧工課から報告されている。しかしながら9月には「箱館青森郵便出発定則」が定められ弘明丸が2、6の日に函館出帆、4と8の日が青森からの出帆、稲川丸がその逆という日程となり、両船による運航が始められた(「開公」5600)
9月からの増船については郵便逓送業務の補完という面に比重が置かれていたが、従来の月6往復から隔日の12往復へと倍増したことは青函航路の重要度を一層増すことになった。同月19日に管内に布達されて、同22日から実施された。また乗客運賃は6年2月の開航時のまま据え置かれたが、北海道開拓を進めるという政策を反映して、移民あるいは出稼ぎ者を意図した運賃として下等を新たに定めた。なおこの時をもって安渡線は旅客・貨物が少なく廃止された。稲川丸は前述のように小規模の汽船ではあったが、一定程度の輸送力を増したといえよう。
同航路には開拓使の事情から弘明丸の代船として矯龍丸や雷電丸などが就航する場合もあったが、定期航路としての性格は保持されたようである。明治8年10月には、この年の米の豊作による米価低落そして諸物価低落といったこと、あるいは三菱会社がこの航路に参入したことなどから旅客運賃の値下げをしている。12年6月になると三菱会社は青函定期航路の開設を請願してきたので、10月に許可したため開拓使による定期便は廃止された。その後は繁忙期に三菱船のみで対応できない場合があれば青函航路に不定期で就航する場合もあった。