北海道はその地理的特質から海難事故の多発地域であった。連年北海道の沿岸では100隻以上の難破事故が続出している。道内の沿岸は風波が高く難所も多いため海難多発を免れなかったのであるが、特に和船は構造上脆弱であるために、その傾向が強かった。ちなみに和船の道内における海難事故は明治7年175隻、68人の死亡、流失貨物4万5775石、翌8年で120隻、49人、2万919石にものぼった(明治9年『開拓使公文録抄』)。このため開拓使は海難防止の措置を取らざるをえなかった。
和船が海難事故に結びつくとの観点ではすでに、3年1月の時点で政府が布告した郵船商船規則のなかでうたわれており、そのなかで西洋形の船舶を奨励する方針を打ち出していた。
一方、開拓使は8年5月に管内に「北海道ノ義ハ海路危険、殊ニ冬天風浪ノ際従前ノ船製ニテハ難破ノ憂不少候ニ付、五百石積以上即凡七十四噸四分余日本形新製ノ義不相成候…」という布達を出し、500石積(約74トン)以上の日本型船の新造を禁じ、西洋形帆船の新造を奨励した。同時に室蘭に造船所を建設する予定であり、またその建造費用の貸与については別途講ずる旨を達している(「開日」)。しかし、こうした措置は道内のみの適用(同じ内容の全国布達は明治18年、実施は20年からであった)で、道内沿岸を航行する船舶の多くは他府県の船籍のものであり、この和船新造禁止は北海道における海難防止にただちに結びついたわけではなかった。
そこで開拓使は9年10月20日に和船の積石制限に関する伺いを政府に提出した。「…因襲ノ久シキ船主其利害ヲ問ハス、船手モ亦恬トシテ危険ヲ顧ミス、加ルニ船手等私利ヲ営ンカ為メ密カニ貨物ヲ買取リ、船主ニ隠匿シテ毎船積石数ノ二割乃至三割以上ニ超過セシ荷物ヲ積載シ、偶風候平穏ナル時ハ無難ニ航行シ其利ヲ得ルモ一時ノ僥倖ニシテ、多クハ危険ニ陥リ覆没シテ荷物ヲ投棄シ、加之貴重ノ身命ヲ失フニ至ル」と実際の積石を超過して積載して運航する和船が多い事実を指摘して、出港税則や船改所規則によって北海道に出入りする和船は船鑑札を検査し、積石数を超過するものは超過分を没収する。こうした措置が「従来ノ船手ノ悪習ヲ去リ」、そして航海の安全を保護すべきことにつながるとしている(同前)。伺いは12月に許可となり、翌10年1月府県に対して開拓使の布達が出されて、翌2月から施行された。