西洋帆船の船主は幕末と同じく自己経営の補完という性格が色濃いものであったが、他人荷物の運送を行う船主階層が増加していった。ここではそうした事例について見ておこう。『新釧路市史』第2巻には明治初期の釧路の海上輸送については明治12、3年ごろまでの海上輸送は旧漁場持、保任社など特定業者の手にあったが、「…佐野孫右衛門は手船蜻蜒(蜓)丸(洋型帆前船千石積)を以て函館釧路間を毎月一回位の航行を続け、米穀其他の貨物を輸入し又は漁夫の輸送等に供せり。其外には海産物積取のため随時航行する帆前船毎月数隻の出入あり。汽船は毎月二、三回函館より廻航する者ありしのみなりと。八年ごろより汽船化のきざしが釧路にもあらわれ、また明治十三年以降海産物の自由取引の許可により、とくに函館商人の来住がみられ、輸送にあたった。またこの年佐野は漁業経営を廃した。これにより漁獲物輸送を中心にした函館-釧路間の荷物輸送も廃されたようである。…明治中十二、十三年頃には帆前船に仁風丸〈函館人の所有〉毎月数回入港し、一般商人の貨物輸送に便せり。又函館の人筑前善次郎なる者帆前船雌阿寒丸、雄阿寒丸各百二十噸級のもの二艘を以て米噌その他の必需品及海産物等の売買乃至委託販売を目的として明治七、八年頃より約十五年間は函館釧路を運航し凡ての貨物は殆ど同船によって支配せらるるところとなりき」と明治初期の函館・釧路間の海運状況を説明している。佐野の事例は彼が場所請負人-場所持という系譜のなかであくまで、彼自身の漁業経営のための自己の荷物運送のための海運であった。これに対して仁風丸は函館の村田駒吉の所有船であるが、村田と筑前の場合は佐野とは異なり、産地との取引、あるいは一般の貨物輸送のための海運という明確な違いがあった。
10年代の前半の西洋形帆船の函館と道内の運行状況を見ると日高、釧路、十勝、根室といった方面、すなわち東海岸の航海度数が高い。これは同地方が函館の帆船に大きく依存していたことを反映している(『増訂北海道要覧』)。つまり函館船主は自己荷物を運ぶとともに東海岸の商圏を掌握していたことになる。