8年2月22日三菱商会は旧蕃地事務局に対し「北海道航運ノ義ニ付伺」を提出した。それによれば、東海丸と瓊浦丸の2隻によって「右ハ御委託ノ汽船先般蕃地ノ事件御平定相成候ニ付東京丸金川丸新潟丸高砂丸之四隻ハ本月二日ヨリ既ニ上海航海相初メ申候処御国北海道ノ義ハ従来運輸ノ便無之人情モ頑固ニ有ノ依テ追々北海諸港航海盛大ニ御開可相成ト奉恐察候得共差向キ右二隻ノ汽船ヲ以寒風沢青森函館ノ諸向ヘ往復為仕申度御許容相成候上ハ同港最寄ノ御貢米並兵器等も精々運輸仕申度奉存候間何卒其御手配被成下度此段奉伺也」(『三菱社誌』第1巻)とあって、北海道への航路を開きたいというものであった。
この伺書を受けた旧蕃地事務局はただちに許可するとともに、早速開拓使東京出張所へ汽船2艘によって横浜・函館間に航路を開くこと、また官用があれば同船を利用するようにとの通知をして、三菱には出航3日前に開拓使へ届け出をして用向を確認するようにとの指令を出した(「開公」5803)。
『三菱社誌』第1巻によれば同航路の往復航海日程は次のように定められた。横浜(碇泊5日間)→2日(航海時間)→寒風沢(同1日)→2日→函館(同1日半)→半日→青森(半日)→半日→函館(同1日半)→4日→横浜となり全日数は18日半であった。また運賃は乗客運賃が上等21円、中等19円、下等12円50銭、貨物は1トン当たり5円50銭であった。これらの運賃は景気変動などにより変更されていった。3月13日の寒風沢から函館へ入港した瓊浦丸の便が横浜・函館線の入港第1船であった(明治8年「函館支庁日誌」道文蔵)。この航路が発着日を定めた定期航路となるのは15年10月以降のことであるが、少なくともこの時点から月に4往復の航海が実現することになった。
三菱が北海道へ注目するようになったのは台湾出兵の終結によって、船舶が過剰となり国内航路の開拓を志向したためである。なお、上記の伺書には「北海道ノ義ハ従来運輸ノ便無之人情モ頑固」であると見ているが、前に述べたとおり函館それ自体は外国汽船や開拓使付属船の利用といった実績があったので、三菱の首脳の意識には函館そのものよりも北海道全域において汽船利用が浸透していないという見方が支配的であったと思われる。しかし当面は三菱による北方の航路開設は函館を中心にした北海道海産物の関東市場への輸送と横浜から函館への輸入商品の輸送を目的とした。またこの京浜・函館間の航路の開設は太平洋郵船会社と帝国郵便蒸気船会社の駆逐との意図を含んでいた。実際に三菱が北方航路を開設したことで太平洋郵船の船は運航を停止した。函館駐在のイギリス領事は明治8年の報告のなかで外国船の函館入港が減少したことに関して「これは北方への運航を止めた太平洋郵船会社の汽船によるもので、その代わりに三菱会社の汽船が定期的に四~五隻入港している」と報告している。また帝国郵便蒸気船会社も船舶の質量ともに三菱には対抗しえず北方航路は急速に基盤を失っていった。