道庁補助航路も30年代に入ると徐々に整備されてきた。30年度に函館・大津航路を開き、32年度には小樽・稚内・網走線と小樽・天塩・北見線の2線が開始され、千島航路を含めて4線となった。函館・大津航路は道東への植民の連絡口となっていた。明治26年に拓殖事業の普及を企図して北海道協会(本部・東京、札幌に支部)が設立され各種の事業を行ったが、その主要なものとして移住者の渡道保護があった。具体的には渡道者に対する交通費の助成などであったが、その一つに函館・広尾・大津間の航路を利用するさいに5割の割引証を発行した。この航路は移民ルートの一つとして重要視されていたわけであるが、割引証の発行は函館の飯岡回漕店が担当していた。つまり飯岡回漕店は大津行きの船便を一手に手配して路線に就航する船舶の確保に努めたのである。ところがこの航路は函館の船舶が不定期に就航するにすぎなかった。そこで北海道庁では明治30年度から3000円の補助金を出して定期航海を開かせることにした。初年度は函館の服部次郎次が落札して恵比須丸で定期航路を開いた。4月から9月までは月に4回、10月から翌年3月までは月2回の航海数と定められた。翌年の入札では渡辺熊四郎が落札して、汽船末広丸による月5回の定期航海を開始した。以後連年渡辺熊四郎がこの航路を請負った。小樽・稚内・網走線は函館汽船会社が年額5000円の補助金を受けて航海数21回と定められ受命し、小樽・天塩線は函館の能登善吉(翌年度からは小樽の藤山要吉)が受命した。
さて33年9月で政府命令航路が満期となり、従来の神戸・小樽線と青森・函館・室蘭線は引き続き逓信省所管として日本郵船が受命したが、道内航路は内務省に移管された。そして内務大臣の管轄下に北海道庁長官がこれを処理することに閣議で決定され、予算外国庫の負担(航路補助費の支出)により33年10月から5か年函館・根室線、根室・紗那線、根室・網走線、小樽・稚内線の4路線を日本郵船に命令した。これで道内の航路は北海道庁命令航路と北海道庁補助航路の2本立てとなった。
北海道航路は第14議会で函館・根室線、根室・紗那線、根室・網走線、小樽・稚内線の4線に対する航路補助が決定され、北海道庁が管轄することになった。北海道庁命令航路は33年10月より実施されたが、さらに34年5月13日には道庁は日本郵船に5か年間の稚内・網走線、函館・小樽線の定期航路を命じて、同年10月から函館・小樽線の航海が開始されたが、これにより全道沿岸航路を周航する補助航路網が形成された。すなわち東回りは函館を起点に根室、紗那、網走に至り、一方の西回りは函館を起点に小樽、各離島、稚内、網走に達し、そこで連絡がなされた。なお両線とも700トン以上の船舶を就航させるように命じられ、また航海数は函館・小樽線は4月から10月までは毎月11回、その他の月は同3回の往復航路とされ江差、寿都、岩内、奥尻に寄港した。