紙幣の発行では、藩札、太政官札のほかに府県札、民部省札、為替会社札があった。明治元年閏4月、藩を当分旧制のままとし、幕府の直轄領・皇室領・社寺領を府県とした。元年閏4月から2年12月までの間に設置された府県は50を超えるが、そのうち箱館・京都・奈良の3府のほか12県が紙幣を発行した。府県札の性格・体裁は藩札と全く同様であった(前掲『貨幣の語る日本の歴史』)。
箱館府仮札が発行するに至った経過は次のようである。明治2年7月8日に開拓使が設置され、8月25日東久世通禧が開拓長官に就任することになり、引続いて中枢の人事も決定したが、赴任するに先だって今後の政務事項を8月に政府に提示して指示を求めた。それは14項目(公文録)に及ぶが、太政官の指令が下った。そのなかの5項目に「開拓融通のため百文銭および四文銭、ならびに島中限りの切手紙幣一匁より十匁を製すべきこと」の件については、太政官は大蔵省の意見どおりとし、大蔵省では当省官吏を出張させて実情調査のうえ、良法を設けて金穀諸産物の融通を付すべし、としている。大蔵省監督官の出張によって、外国人が所持している2分金を検査する一方、贋金と交換して住民の難渋を救うため、急いで、紙幣を製造した。各国領事の了解をえて、9月5日「箱館会計局札」を1万両発行した。しかし、この金札は紙質、印刷が粗雑なため信用されず、ほとんど流通しなかった。7月から館(松前)藩発行の藩札「松前会計局札」が額面を大幅に下落したこともあって、府札の信用度が低かったことは無理もないといえよう。このような流通状態のときに、太政官札が回送されたので発行を中止し、10月1日から太政官金札と引き換えはじめたので、わずか25日間の発行に終わった(『新北海道史』通説2、弥永芳子「北海道のお金」昭和56年12月2日付『北海道新聞』)。
太政官札につづいて、政府は明治2年11月から3年10月まで民部省札750万両を発行した。これは小額通貨の不足を補うためで、券種は2分・1分・2朱・1朱の4種であった。これらは、小銭として全国にわたって流通した(前掲『貨幣の語る日本の歴史』)。
このほかに、明治2年には為替会社札も発行されている。政府は2年5月、通商司の指導のもとに、東京はじめ8か所に通商会社および為替会社を設立した。通商会社は内外商業の振興を、為替会社はその振興に必要な資金を融通することを主要な目的として設けられた。函館は新潟・横浜の開港場とともに、東京為替会社の取扱に属した。為替会社札の中心をなすのは、各会社の共通に発行した金券で、100両・50両・25両・10両・5両・1両の6種で、発行許可高は合計634万6950両に及び、金貨兌換を建前とした(『北海道金融史』、前掲『貨幣の語る日本の歴史』)。
さきに指摘した「百匁銭および四文銭」に関しては監督官から調査報告書を大蔵省へ送付した。民部・大蔵の両省から政府へ伺書が出され、2年10月太政官達をもって北海道開拓融通のため、当百銭「天保通宝」の増鋳が決定した。この素材として、各藩の唐銅製大砲を買上げて当て、明治2年10月18日から翌3年8月までに、2720万7000枚を鋳造した。翌4年12月から8厘に通用となり、明治29(1896)年12月31日限りで廃貨となった。当時はふろ銭、うどん、そばが8厘であったので、庶民が最も多く使用した便利な銭であった(前掲「北海道のお金」昭和56年12月3日付『北海道新聞』)。
一般的にいって、函館のような旧幕府領では旧金銀貨ことに2分金・1分銀・1朱銀と太政官札が、各藩ではそこの藩札と太政官札が、それぞれ中心的通貨であった(同前)。