「貸付所閉鎖御用留」(道文蔵)により開拓使用達の任免をみると次のようになる。
5年1月に「北海道産物為替取扱方並に諸仕入品用達(但金銀出納は三井組にて取扱)」として、嶋田八郎左衛門、小野次郎右衛門、田中次郎左衛門、栖原角兵衛、榎本六兵衛、渡辺治右衛門の6名、5年2月には同じく笠野熊吉と林留右衛門、7年12月8日には渡辺治右衛門からの依頼により差免、7年6月17日には田中治郎左衛門を貸付会所の頭取に任命。8年6月17日には笠野熊吉を同副頭取に任命、8年8月10日には榎本六兵衛門と嶋田八郎左衛門を差免。8年11月29日に小野善助も差免した。
この貸付会所は、多額の官金を融通して民間へ貸付けていた。ところが当初はその規則も明確ではなく、ずさんなものであったようである。明治7年の小野・島田両組の破産で会所も動揺したので、12月黒田長官が自ら赴き、大阪会所の管理と、同時に会所規則が整備された(前掲「三井銀行と開拓使」)。すなわち、明治7年12月に仮規則を定めていたが、8年6月に貸付会所条例、貸付会所定款および貸付規則を制定した。
貸付会所の中で、用達として三井の受けた利益はつぎのようであった。「貸付会所定款」によると、第16条で貸付業務によってえた利益は会所純益をも含めて、すべて貸付元金に繰入れられ、利益を他用、配分は一切禁止された。仮規則には、用達のうち貸金を請うて自らの用に使いたい者がある時は、抵当品を精査して返済の期限を確定し、主課官員の検査を受ければ、貸付の特権を受けることが可能であった(『布類』下編)。
明治7年に小野、島田が破産して貸付会所用達から脱落したので、三井が重要な地位にあった。その実態は表8-3のように、合計116万円という金額が長期にわたり、一部では開拓使自ら大蔵省へ虚偽の報告をするよう指令しながら、しかも一部は貸付会所閉鎖後もなお継続して融資をうけている。開拓使と三井銀行との密着ぶりがよく示されている(前掲「三井銀行と開拓使」)。
表8-3 開拓使より三井銀行への貸渡金額表
貸渡年月日 | 貸渡金額 (円) | 年利 | 抵当 | 返納期限 | 返納延期 期限 | 備考 |
明5.9 | 70,000 | 不明 | 不明 | 明5.12.20 | ||
明6.1 | 70,000 | 8朱 | 不明 | 不明 | ||
明8.7.19 | 100,000 | 6朱 | 新公債 秩禄公債 | 明8.12.20 | 殖民費より一時貸渡 | |
明9.7.22 | 70,000 | 8朱 | 秩禄公債 | 明10.3 | 明13.12 | 殖民費ロ |
明9.7.25 | 50,000 | 8朱 | 新公債 | 明9.12 | 明13.12 | 定額ロ |
明10.6 | 200,000 | 8朱 (11年より 7朱) | 新公債 秩禄公債 | 明10.9 | 明12.3 | 80,000円は定式ロ 120,000円は殖民ロ |
明10.11.22 | 200,000 | 7朱 | 新公債 秩禄公債 | 明11.6 | 明11.12 | 定式ロ? |
明11.12.5 | 50,000 | 7分 | 公債 | 明12.6 | 明13.6 | 定式ロ |
明11.12.28 | 150,000 | 7分 | 公債 | 明12.6 | 明13.12 | 煤田ロ |
明12.1.1 | 50,000 | 7分 | 公債 | 明12.9 | 明13.9 | 定式ロ |
明12.1.1 | 70,000 | 7分 | 公債 | 明12.9 | 明14.3 | 殖民ロ |
明12.1.1 | 80,000 | 7分 | 公債 | 明12.9 | 明13.9 | 定式ロ |
明5.9 | 260,000 | 4朱 (1部は9.1より6朱) | 無 | 明6.12 | 130,000円 明9.3 | 証券50銭以下3種の2割 |
明6.12 | 166,670 | 5朱 | 無 | 明8.6 | 証券1円以上3種の2割の1部 | |
明6.12 | 73,330 | 5朱 | 無 | 明13.12 | 明.15.2 | 同上 |
明8.7.1 | 166,670 | 5朱 | 無 | 明13.12 | 明15.2 | 証券1円以上3種の2割の1部 返納分を更に貸渡 |
北海道立文書館蔵「三井銀行関係書類綴込」より作成.
注(1)抵当の金額は貸渡金額と実価同額であるので省略した.
(2)返納延期期限は現存する文書中最後に承認された延期願に記載されている年月日であって、その年月に返納されたかどうかはあきらかでない.
(3)備考中、殖民費(殖民)ロとは屯田殖民費より、定額口は定額金より、定式ロは定額金・税金の有余金より、煤田口は、起業公債に基づく幌内煤田費よりそれぞれ流用したものと考えられる.
(4)原田一典「三井銀行と開拓使」『日本歴史』第164号より引用.