函館銀行 『函館案内』より
従来函館における各銀行は時勢の変遷とともに、その営業の方法を次第に改良してきたが、いまだに対物信用の因習にとらわれている傾向があらたまる所がなく、ややもすればその営業ぶりが質屋的に流れる傾向があった。日清戦後に清国に対する本道海産物貿易の局面が一転し、函館は海産物集散港として一大発展を見ようとする折に、銀行により商業当事者が金融上の恩典を蒙ることが頗る少い現状では、やがて函館の発展を阻止するだろうという意見が出てきた。そこでこの現状を打破し、商業に対して絶対に貢献をするであろう純商業銀行を設立しようとした(「函館に於ける銀行沿革」大正11年2月8日『函毎』)。
これが函館の紳商の間で成熟し、平出喜三郎(先代)、広谷源治、岡本忠蔵、金沢彦作、徳根卯三郎その他の人々が発起し、明治29年7月6日函館銀行(末広町二番地)を創立するに至った。ここに至った背景として、28年7月に日本銀行函館支店(出張店は26年)が設置されたことが大きな力となっている。当銀行が目標としたのは「商業銀行」といわれた通り、「為替の如き全国概要の地は取引の設あらざるなく特に手形割引の如き勉めて需用の融通を弁じ当港商人の如き殆と同行を以て融通の機関と為す者の如しと云ふ」(『函館案内』)評価を受けていた。
営業開始は明治29年8月7日で、資本金50万円、株式1万株、1株金50円(内払込高25万円)であった。役員の構成は頭取広谷源治、取締役金沢彦作、逸見小右衛門、辻快三、平出喜三郎、監査役皆月善六、小野秀次郎、斎藤又右衛門であった(『(株)函館銀行第一期営業報告』)。