23年8月には貯金取扱内規を基礎として「貯蓄銀行条例」(法律第73号)が公布された。
第一条 複利ノ方法ヲ以テ公衆ノ為ニ預金ノ事業ヲ営ム者ヲ貯蓄銀行トス 銀行ニ於テ新ニ一口五円未満ノ金額ヲ定期預リ若ハ当座預リトシテ引受ルトキハ貯蓄銀行ノ業ヲ営ム者ト為シ此条例ニ依ラシム 第二条 資本金三万円以上ノ株式会社ニアラサレハ貯蓄銀行ノ業ヲ営ムコトヲ得ス 第三条 貯蓄銀行ノ取締役ハ銀行ノ義務ニ付連帯無限ノ責任ヲ負フモノトス 但其任ハ退任後一箇年ノ満了ニ因リテ消滅ス 第四条 貯蓄銀行ハ貯蓄払戻ノ保証トシテ資本入金ノ半額ヨリ少カラザル金額ヲ利付国債証券ニテ備へ置キ之ヲ供託所ニ預ケ入ルヘシ 第五条 貯蓄銀行ハ左ニ掲クル事項ノ外其資金ヲ運転スルコトヲ得ス 第一 貸付 第二 証券ノ割引 第三 国債証券及地方債券ノ買入 第六条 貯蓄銀行ニ於テ前条ニ依リ貸付ヲ為スハ其期限六か月以内ニシテ国債証券地方債証券ヲ質ト為シタル場合ニ限ル其割引ヲ為スハ支払資力ニ付疑フヘキ理由ノ存セサル者二名以上ノ裏書アル為替手形約束手形ニ限ルヘシ 貯蓄銀行ハ国債証券及地方債券ノ定期売買ヲ為スコトヲ得ス (『明治財政史』第十二巻) |
函館貯蓄銀行 杉浦知茂氏提供
以上のように本条例は明治23年3月の内規に比べていっそう取締法規的色彩を濃くした。第1条で貯蓄銀行の性格を規定し、第2条では最低資本額を定めており、これは銀行条例とは異なるものであった。
しかしこの条例は銀行業者の反対で、明治28年3月「貯蓄銀行条例」を改正した。この改正で資金運用制限規定は撤廃され、預金払戻保証供託は預金額の4分の1となった。政府の管理を厳にして預金者を保護しようという方針は挫折した(前掲『日本金融制度発達史』)。
函館貯蓄銀行は明治29年6月30日、函館の紳商があいよって設立し、8月1日より開業した。資本金は7万円で、これを分けて140株とし、1株金500円とした。本店は函館区末広町で、各支店を函館区鶴岡町および弁天町の2か所に設けた。頭取は田中正右衛門、取締役は渡辺熊四郎、杉浦嘉七、監査役相馬哲平、広谷源治であった(「北海道銀行概略」『殖民公報』第7号)。
この銀行は本道に本店を有する貯蓄銀行としては最初のもので、信用は頗るあつく、当時は道内はもちろん全国各地で貯蓄銀行の成績が甚だ不良の時代であったが、開業後同銀行のみ良好の成績を続けていた(「函館に於ける銀行沿革」大正11年3月1日『函毎』)。