翌14年2月に器械場、鍛冶場、木挽場などの主要施設が落成し、また蒸気動力を用いた鋸器械2基の取り付けも完了したので5月5日をもってまず製材業を主要営業種目として着業した。なお前年10月に渡辺ら4名の出願者と平野富二とそれに三菱の石川七財の連名になる「函館器械製造所事務章程」と「同仮規則」が定められた(前掲「機械所書類」)。当初こそ製材業という限定された種目であったが、開業後1年ほどかけて各種機械類の整備、諸作業場の増設などにより営業種目の拡大が図られた。
15年5月14日「函館新聞」には「真砂町器械製造所に於ては追々事業を拡張せらるる処今度更に西洋形帆走船及び日本形船などの修繕を引受け又バッテーラ磯船の如き小船は需めに応じて製造さるる事に成りしよし」と報道され、器械製造所という名称ではあっても実質造船業を可能とする体制が確立された。なお、桐野は海軍省から派遣許可を受けていたが、15年3月に、その期限がきたため渡辺らはその延長願いを提出した。しかし横須賀造船所の業務が多忙となってきたため、出願は却下され、同人は7月に離函した。桐野は離函後も製造所の求めに応じて各種の助言をするなど深い係わりを持ち続けた。
ところで営業開始後の状況はどうであったろうか。15年から実質的に造船所としての機能を持つようになり多数の職工を有して、各種の注文に対応した。16年当初では職工構成は表9-3のとおりである。ところが、このような体制を整えていたが、設立運動を始めた時点と着業時の経済情勢は異なっており、いわゆる3県期の不況下に突入する段階にあった。このため当初予測したほどの受注が伸びず、連年赤字経営の連続であった。表9-4は15~18年(ただし18年は見込み額)の収支表であるが、いずれも欠損計上となっている。15年の収支の内訳は収入1万9406円のうち器械製造が1万2186円で62パーセント、造船仕業が4584円で23パーセント、他に製材576円、木材販売428円、地代倉敷240円となっている。造船仕業とは船舶関係の修繕のことで主に汽缶修理で占めている。一方支出は器械場、鋸器械場、造船場、建築営繕、器械購入、売木品、場内(事務経費)の7科目からなり、それぞれ1万1268円、849円、3538円、1234円、3384円、843円、5058円の計2万6177円となっており、器械場の経費の占める割合が大きい。細目別では職工給料が7700円で29パーセントとトップを占め、金物購入、器械購入と続く(前掲「景況要略」)。
また16年は収入は器械製造が1万1302円で53パーセント、造船仕業5428円で25パーセント、その他2万939円に対し、支出は職工給料が9371円で36パーセント、原材料費が7877円で30パーセント、他に事務費、営繕費等で計2万5906円となっている(明治17年「勧業上緊急問答」前掲『函館県(工業・鉱業・雑記)』)。
15、6年の製造高をみると15年は902個、16年は1334個であるが、、この製造高は主にボルトやシリンダーの船舶用製鉄部品である。なお製造所は前述したように船舶部門のみでは採算が取れないため陸上部門-特に農器具関係の製造に取り組もうとする動きもあったので、これら製造高のなかには農具類も一部含まれていることも考えられる(明治15年『函館県統計表』、明治16年『函館県統計書』)。
15、6年は以上のような小規模の受注しかなかったが、17年に業績の著しい伸長がみられた。それは共同運輸会社の沖鷹丸の蒸気機関の新造および船体の修復工事を請負ったことや後述するように受注範囲の拡大がなされたことによる。製造所にとり沖鷹丸の請負は始めての本格的な船体修繕工事といえるものであった。この工事に係わる収入は1万5012円、この他に共同運輸会社からの受注1554円、三菱会社875円、県庁土木課2631円、紋鼈製糖所1115円、諸船舶2274円、官庁会社4356円等であった。このように受注拡大をみるようになったものの、経常利益をうみだすまでにはいたらなかった。
表9-3 器械製造所職工
職 種 | 人 数 |
器械工 造船工 鍛冶工 鋳物工 木挽工 その他 | 16人 13人 6人 5人 2人 9人 |
計 | 51人 |
「函館仮機械製造設所設立ノ原由并景況要略」
『饒石叢書』より
表9-4 器械製造所収支 単位 円
年 次 | 収 入 | 支 出 | 差 |
明治15 16 17 18 | 19,406 21,526 35,009 22,167 | 26,177 25,906 36,711 25,344 | △6,771 △4,379 △1,702 △3,176 |
明治18年「道路開鑿・函館器械所・函館水道敷設・亀田川末流転注書類」より作成