第2期は課税

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 明治15年にロシアでは樺太島の官制改革があり、コルサコフ港には沿海州軍務知事の管轄に属する南部首長の専任官が置かれ、陸軍少佐ヤンウェウイチがその職に就いた。少佐は精密な1事務官であったので交換条約を熟読し、日本漁民は条約第6款第2項にある「日本船オヨビ商人ハ……其ノ海オヨビ海岸ニ沿ウテ漁業ヲ営ム等……権利オヨビ特典ヲ得ルコト」によって漁業を許可されたもので、無税の特典のないことを看破し、日本漁民に対する課税を沿海州軍務知事に具申したのである。そして明治16年5月中に突如として、ほとんど漁業禁止税ともいうべき高率の漁業税法が発布された。すでに出漁の準備を終り樺太へ渡航しはじめていた日本漁民は困難をきわめ、「二十四隻ノ風走船ハコルサコフ港ニ空シク碇シテ」(「薩哈嗹(サガレン)島本邦人漁業沿革」外交史料館蔵)救いを領事館に求めたのである。領事と南部首長との再三におよぶ折衝の結果、この年限りの漁業諸税の納入で漁業が可能になった。これが課税時代のはじまりで、翌17年には重税に加えて、シスカを中心とするテルペニエ湾一帯および北部ロモーとヌエ一円の漁場が禁漁区とされたが、10名の漁民が禁外の地へ出漁している。明治18年に至って漸く課税額も一定し、アニワ湾内一円およびテルペニエ湾中、ロシア側の指定の漁場で漁業を営むことが許可された。この取り決めは明治22年まで続き、さらに23年から5か年間継続された。27年12月には黒竜江総督から28年より3か年間有効の海産仮規則が発布されたが、この規則の中での日本側にとって不利益な条項も折衝により実益を保護することができた。また禁漁区のロモー地方が解禁となり、さらに従来ロシア人以外に許可されなかった西海岸の漁場が29年より日本人に許可された。日清戦争の勝利が与って力あったともいわれている。以上のように16年から30年までの第2期は、当初厳しい課税と規制があったものの、その後の10余年間は安定的に推移した。