その結果に基づき、政府は、明治28年2月新たに「猟虎膃肭獣(ラッコオットセイ)猟法」を制定した。その提案理由書には、
実際の経験に拠れば猟虎は千島諸島のみ棲息するの事実なるに依り北海全道を以て禁猟区とするの必要なく又膃肭獣は外の海面即ち本州東西岸を回泳し金華山沖に於て盛に猟獲あるに依り独り北海全道を以て禁猟区とするも結局繁殖上の実効を見ること能はざるべし故に現行法令を改正し適当なる禁猟区禁猟期を定め其区域外又は期間外に於て自由に捕獲に従事せしめ依て以て獣族の保護と猟業の発達と相並行して悖ることなからしめんことを期す (片山房吉『大日本水産史』) |
とあり、従来のように千島列島周辺の密猟防止に当たるよりも、外国猟船に対抗するためには、我が国猟船の沖合進出を積極的に図ることが得策であるとして、それまでの特許制度を廃止し、出願による免許制度をとることとした。
同法の施行後の明治29年、免許を受けた猟船は先に述べた帝国水産会社の外10隻、このうち7隻は、函館港を定繋場としている(表9-75)。
表9-75 免許を受けたラッコ・オットセイ猟業船(明治29年)
船 名 | トン教 | 定繋場 | 猟獲高 | 所有者 |
第1千島丸 第2千島丸 海 王 順 天 卯 の 日 八 雲 懐 遠 宝 寿 天 祐 石 川 10隻 | 68 68 87 41 83 44 72 18 40 170 671 | 北海道函館 同 同 同 同 同 東京大川口 岩手県細浦 同釜石 北海道函館 | 411 頭 768 592 1(12) 372( 5) 367 548 84 140 ? 12,283(17) | 北海道 帝国水産会社 同 同 同 同 同 同 同 辻 快 三 同 同 東京 青 木 孝 岩手 水 上 助 三 郎 同 小 松 駒 二 郎 北海道 郡 司 成 忠 |
大日本水産会『大日本水産会報』175号
猟獲高欄ヰの数はオットセイ、( )はラッコ
この年のアメリカ・イギリス猟船の状況をみると、来航隻数は37隻で、捕獲頭数は2万1942頭、これに対して、我が猟船の捕獲数は1万2283頭であったが、外国猟船は、明治27年に65隻で、捕獲数が6万2920頭、翌28年には船数41隻で、2万6300頭と、隻数、捕獲数がともに減少している。この原因は、好調な日本近海のオットセイ猟に刺激され出猟船が急増した結果、乗組員の不足と給料の高騰により採算がとれなくなったことにあるという(前出『大日本水産会報』)。
この後、政府は、ラッコ・オットセイ猟業をはじめとする遠洋漁業の振興を図るため、30年3月、遠洋漁業奨励法を制定し、翌31年4月から施行した。この遠洋漁業奨励法の目的は、一般の遠洋漁業を奨励することにあったが、立法の動機は、前述した外国猟船の日本近海への進出に対抗することにあり、当初その適用を受けた漁船の大部分がラッコ・オットセイ猟船で占められていた。
同法によれば、指定された漁業種類(10種)と漁場(8海域)で操業する漁業を対象に、汽船の場合、登簿噸数100トン以上、帆船では80トン以上の漁船に対して、5年間、汽船、帆船ともに1トンにつき年間5円以内、乗組員は1人につき10円以内の割合で奨励金が交付されることになっていた。
当初奨励金を受けた漁船は、同法施行直後の31年にはオットセイ猟船1隻に止どまったが、翌年には14隻(内9隻が猟船)、その後は年々増加して、40年には53隻(内32隻が猟船)が奨励金を受けている。なお、この間のオットセイ船の隻数は、奨励金を受けない猟船総数も加えると、36年には21隻となり、40年には36隻に達している(表9-76)。
表9-76 海獣猟船数と捕獲頭数及び漁場
年 次 | 船 数 | 頭 数 | 漁 場 |
明治29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 | (9) (13) 1(16) 9(12) 10(14) 13(15) 15(15) 12(21) 18(28) 21(28) 26(29) 32(36) 31(34) -(34) -(33) -(47) | 3,319 4,616 4,757 6,518 7,533 7,045 7,454 10,937 15,698 10,335 10,475 10,413 13,310 10,346 8,309 12,081 | 本邦東岸、3隻カムチャツカ近海に出猟 同 本邦東岸、4隻カムチャツカ近海に出猟 同、カムチャツカ、アラスカ近海に出猟 同 同、初めて日本海漁場に出猟 春猟本邦東西岸、夏猟カムチャツカ、アラスカ近海に出猟 同 同 同、初めてアメリカ西岸に出猟 春猟本邦東西岸、夏猟主にカムチャツカ、アラスカ 同 春猟本邦近海、夏猟主にアラスカ近海 同 同 同 |
帝国水産会・大正14年『水産年鑑』による.
船数欄中、左は遠洋漁業奨励金交付隻数、( )内は猟船総数
このような我が国猟船の進出に伴い、外国の猟船は次第に減少し、明治36年頃には外国猟船は姿を消し、奨励法制定の目的は一応達成されたことになった。だが、この頃から我が国猟船の増加に伴い1隻当たりの捕獲頭数が減少し始め、当初は主に本土近海を猟場としていた猟船が、露領コマンドルスキー群島近海から、更に北上してベーリング海を横断して米領プリビロフ島周辺海域へ進出するようになり、中には早春太平洋を横断してサンフランシスコ沖合から北上してプリビロフ群島周辺で操業し、晩秋に至って帰帆するものがみられるようになった。
こうして、以前とは逆に、多数の我が国猟船がベーリング海や北太平洋のイギリス・アメリカ・ロシア各国沿岸に進出したが、これら海域における捕獲数の減少が目立ちはじめ、それに伴い外国猟船はほとんど廃業することになった。かくして、これら海域におけるオットセイ猟は、我が国猟船が独占する状態になり、明治42年ラッコ・オットセイ猟に対する奨励金の交付は打ち切られることになった。
また、日本猟船の北太平洋への進出は関係国を大いに刺激し、各国監視船による臨検、拿捕事件を続発させることになったが、44年、資源の絶滅を懸念するアメリカの呼び掛けにより、ワシントンにおいて日本、イギリス、アメリカ、ロシア4か国会議が開かれ、膃肭獣及猟虎保護条約が締結された。これによって北緯30度以北の北太平洋におけるラッコ・オットセイ猟業は、明治45年4月22日より向こう15年間禁止されることになり、当時47隻あった猟船は、禁猟交付金約110万円を受け廃業することになった。