本格的な開拓事業が始まった4年9月、札幌府の建設をはじめとする北海道開拓のための「外債」募集願いが、東久世長官と黒田次官連名で太政官に提出された(明治4~5年「稟裁録」道文蔵)。この出願の中に「札縨を根拠ニいたし右ニ府を開キ公庁并学校を始諸官員家屋等取立」と「将来ノ要」とされていた学校の開設が記された。まず官吏の子弟のための学校が開設された。
民間有志の手によって郷塾が開設され子弟就学の便が図られていた函館では、4年10月11日、官員子弟有志を対象に開拓使立の「函館学校」(単に「学校」ともいった)が開校(明治4年「函館支庁日誌」道文蔵)、札幌にも同月資生館が開校した。なお開拓使は、当時一地方庁であるとともに中央庁として太政官に直属する諸省と官制上同等に位置付けられていたため、当時の書類では開拓使立を「官立」と表記しているが、ここでは「開拓使立」とする。
開校した函館学校は、松蔭町にあった官舎(松蔭町6、旧諸術調所)を補修、利用したもので、郷塾同様に漢学と英学を教授、教員には大主典堀達之助・14等出仕小貫庸徳・使掌菊池卓平(盛岡県士族、4年9月洋学助教拝命、幕末諸術調所で学んだといわれる)・沼口偉らがあたった。なお当初は官吏の子弟のみに限って入学を許していたが、翌5年7月からは一般の入学も認め(「開拓使事業報告書 乾」道文蔵)、10月には西洋算術科も開設した。4年の函館学校の概要は、教員4人、生徒は男子のみで30人となっている(同前)。
一方郷塾は、3か年間の予定年限に達し、4万8000両の予算も超過したので、5年9月、東京の新塾、函館の郷塾ともに閉鎖された(『柳田藤吉翁経歴談』)。