しかしなかなか認可されず、函館支庁は「人民ノ情願切迫」しているとして、裁可を得ずに衰退傾向にあった官立松蔭学校を元町へ移し、その跡に公立小学校を開校することにした(「開公」5844)。こうして翌9年1月29日には「二月十日松蔭学校開業」の旨が布達され、函館で初めての公立小学校が開校することになった。松蔭学校は会所学校と同一の教則で小学科目を教授、1クラス30人で男子4・女子1クラスの入学を許し、教員は函館支庁の官員から派遣された。生徒は第2大区の子供が優先で、空きがある時は他区からの入学も認められた(明治9年「函館支庁日誌」道文蔵)。なおこの公立学校開校の件は、9年4月に長官あてに再上申、追認されている(「開公」5844)。
松蔭学校開校が切っ掛けとなって官吏・富豪らからの寄付も多くなり、函館支庁は8年10月「中小学寄付金貸出及出納仮規則」を制定し、寄付金を中小学設立の費用にのみ充てるものとして管理した(明治8年「部下布達達録」道文蔵)。それでも学校新設費用は不足の状態だった。この状況をみた学務世話係の杉浦嘉七は、9年8月、内澗町51の私宅と土蔵を地代7年間無料で校舎に提供したいと申し出た。戸長らは早速概算書を添付し小学校(内澗学校)開校認可の件を願い出た(明治9年「取裁録」道文蔵)。同概算書によると、生徒のテーブル・椅子など新設のための一時費のみを官から援助してもらい、ほかの教員給料・手当て・その他一切の年額費用は町会所予備金利子収入・寄付金・戸賦金・授業料などで賄うとなっている。松蔭学校も同じ公立とはいいながら年額の3分の1が官費依存だったことを考えると、内澗学校はより基本に近い公立学校ということができる。こうして内澗学校は10年1月13日開校した。なお内澗学校の収容児童数は、松蔭学校同様男子約120人女子30人の計150人ほどで、入学優先順位は戸賦金を納める大区・小区が優先で、余地があったら他の各区からとなっていた(明治9年「函館支庁日誌」道文蔵)。
その後公立小学校の開校が続き11年2月に台町(現船見町)に常盤学校、住吉町に住吉学校がともに民家を借用して開校、さらに7月には初めての新築校舎の宝学校が開校した。また翌12年7月には付属小学校・松蔭学校・内澗学校の女子を移し、会所学校跡に初めての女子小学校の第一公立女学校も開校した。
松蔭学校
内澗学校
常磐学校
第一公立女学校
開校が相次いだ公立小学校 (北大図書館北方資料室蔵)