ネトルシップ師を囲むアイヌ学校の子どもたち
キリスト教の布教活動の中では、教育や慈善事業が大きなウエイトをしめているが、函館で布教活動をしていたキリスト教の各派も前述のメソジスト教会をはじめそれぞれに慈善活動をしていた。その中で聖公会はアイヌへの伝道活動に力を入れていた。特に「アイヌの父」といわれた司祭ジョン・バチェラー(John Batchelor)は、当時教育行政から見捨てられていたアイヌのために、幌別の愛隣学校をはじめとした教育施設を全道に開設した。
「札幌には仕事のために一番遠い場所からも、しばしばアイヌがやって来ますが、函館では一年中アイヌを見ることがありません」(仁多見巌訳編『ジョン・バチェラーの手紙』)とバチェラー自身が報告している函館にもアイヌ学校が開設された。これは、幌別の愛隣学校が居留地問題で取り壊し命令を受けたため、その代わりとして25年に元町に開設したもので、同じ聖公会の宣教師で教育者であったネトルシップ(Nettleship)師が校長となった。翌26年には谷地頭に校舎を新築している(『函館沿革史』、ジョン・バチェラー『我が記憶をたどりて』)。32年の同校の概況は、生徒は予科11人・本科4人の15人で、学業は「追々進歩し」、「運動会等の催しなく毎日フートボールの類を課」したということである(河野資料「函館資料三」道図蔵)。また14歳以下の子どもを収容する付属育児院も併設されており、当時14人の子どもが収容されていた。
この函館のアイヌ学校は、その後も20名前後の生徒が在籍した(『函館市史』統計史料編)が、37、8年頃に廃校となった。