明治政府の神仏分離政策

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 明治政府が天皇を中心にした中央集権的な絶対主義政権を志向するとき、蝦夷地函館といえども、その中心権力の政策的影響を免れ得ないことは歴史の当然である。それゆえ、函館地方における神仏分離の実相をうかがうのに先立って、中央のそれを少しく垣間見ることから始めよう。
 江戸時代の初期から、仏教の遁世解脱的教理は有害にして無益、あるいは神仏習合の風潮は国勢衰微の原因であるとする儒者の神儒一致論的立場にたつ排仏論はあった。中期以後に国学が勃興するや、今度は儒仏二教排撃論が展開され、なかでも平田系神道の排仏思想は強烈をきわめ、これが明治維新政府の対仏教政策に大きな影を落とすこととなった。本居宣長の思想面を発展的に継承した平田篤胤が、儒教・仏教および習合神道の批判のうえに立って、惟神道(かんながらのみち)の確立につとめたのである。この神道と国学とを結びつけた復古神道説は、幕末において各地の藩校で国学とともに講じられるとともに、神の子孫=天皇を直接崇拝の対象とするものであったため、政治的実践的な思想となって各地の勤王家たちに信奉されていった。
 維新政府の発足にともなって、その宗教政策を立案したのは他でもなくこの平田系の神道家たちであった。彼らの手になる日本宗教史上においても画期的な「神仏判然令」とは、
 
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王ノ類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社ノ由緒委細ニ書付、早々可申出候事
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事
   付、本地杯ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等ノ類差置候分ハ、早々取除キ可申事
(『明治維新神仏分離史料』)

 
 というものであった。つまり、第1条では仏語で神号を称している神社に対して、その由緒の提出を命じ、第2条においては仏像を神体としている神社にその改変を求めたのであり、世に「神仏分離令」と通称される所以でもある。時に、明治元(1868)年3月28日。
 右の2条が明瞭に示すように、この「神仏判然令」は神社を対象に神道と仏教の宗教施設的な分離を意図したのであったが、現実に神仏分離政策が始動するや、その意図をはるかに越えて、寺院における仏像・経巻の破棄焼却、廃寺、合寺、さらには僧侶の還俗という、まさに廃仏毀釈運動が全国の津々浦々に巻き起こったのである。
 とりわけ、薩摩・隠岐・美濃苗木・松本・富山・佐渡・土佐の各藩において厳しかった。例えば薩摩では明治2年3月に、以後は全て神葬祭にするよう指令し、6月には中元・盂蘭盆会という仏教的行事を廃して神道的祖先祭を制定、11月には領内の全寺院を廃絶し僧侶を還俗させたのである。隠岐でも元年6月に全島の廃仏を断行し、1寺も残さず壊してしまった。
 しかし、全ての地域が薩摩や隠岐のように徹底した廃仏毀釈の動きに出たわけではなかった。愛知・福井・新潟・香川・島根・大分などでは、寺院と庶民の伝統的な和合を背景にして、廃仏毀釈に対する反抗運動が起きたのであり、その意味で、一口に廃仏毀釈運動といっても、決して千編一律ではなかった。
 こうした未曽有の「神仏判然令」に端を発し、政府の意図を越えて起った廃仏毀釈の嵐が、一応の終息をみるのは、西本願寺が政府に仏教関係の事務処理機関の設立を建議し、民部省内に寺院寮が設置された明治3年12月のことであった。
 では、江戸時代以来、醸成され続けてきた積年の排仏論を土壤にして断行された神仏分離→廃仏毀釈の嵐は、ここ函館にも吹き荒れたのであろうか。その実相について調査してみることにしよう。