ところが、箱館戦争が終結してから2年目の明治4年、函館の宗教界もようやく平常の静けさを回復したのであろうか。次のような神仏分離の現実が訪れた。
以書付奉伺候 先般神仏混淆被遊御廃候ニ付、当所并在村取調申候処、所々混淆御座候ニ付、夫々取払申候内、下湯川村社司中川斐男奉仕罷在候湯倉明神神体則仏像ニ有之、速ニ取除可申候処、承応年間ヨリ奉斎御座候申伝ニテ、同村産子ノ者共因循候趣ニテ延後仕候処、漸今般申諭候由ニテ、昨日私迄持出候、右仏像ハ旧藩先代某ノ室女知内金ヲ以鋳立、同社ヘ奉寄候段申伝有之、尤旧記像銘等證跡ハ無御座候ヘ共、前件ノ名像ニ付、被為在御布告通御庁ヘ差出御沙汰奉伺候、且又同村産子共ヨリ可相成御像御座候ハバ、私共ヘ御下渡被成下度、然上ハ於村内奉祀仕度申出候、此条ハ却醸後害可申哉と奉存候得共、猶御処分奉伺度、只金像相添此段奉申上候、以上 社家触頭 菊池従五位 明治四辛未二月十四日開拓使 御中 (明治四年「社寺届」道文蔵) |
この一文によれば、湯倉神社の神官中川が、下湯川村明神は江戸時代の承応年間(1652~55)から村民に手厚く祀られてきた仏像の神体を持つものであり、しかもそれは松前藩主の側室が寄付された由緒あるものであるから、神仏分離の趣旨に則って一旦は開拓使に差出すものの、調査の済み次第、再び村民の手許に返してほしい旨を歎願していたことになる。
表現をかえていえば、神官中川と下湯川村の村民たちは神仏分離の政策に基本的には従いながらも、現実の信仰のあり方においては伝統的な土着信仰ともいうべき神仏習合は捨て難く、かなり明瞭なる理由を申し立てて、上からの政策的神仏分離に異議を唱えていたのである。前に江差正覚院という寺院側の神仏分離政策に対するある種の抵抗を観察したが、函館のそれは神官と村民の一体化に基づく抵抗であった点に特色があり、甚だ興味深い。
湯倉神社に示されるような土着信仰を背景にした神仏分離政策に対する静かな抵抗の結末はどうであったろうか。江差正覚院のように政策的圧力によって上から押し切られたのであろうか。それとも、土着の信仰の声が神仏分離政策をあくまでも押しのけ、持続的な営みを続けていったのであろうか。それを直接的かつ具体的に立証する史料は、遺憾ながら存しない。よって、少しばかりの傍証史料を示しながら類推するしか道はない。
明治3年3月13日、前の江差正覚院の金毘羅堂が破壊されていたが、実はその日に同院内の稲荷堂も壊されていたし、阿弥陀寺の稲荷堂も同じくとり壊されていた(『神道大系北海道』)。してみれば、江差地方においては正覚院の抵抗以後、神仏分離が着実に実施されていたとみてよいだろう。