すなわち、天台宗清光院の寛純なる別当が明治4年正月16日付をもってこう述べている。
東西御場所ヘ末院取建申度儀、兼念願ニ奉存候所、倩承伝仕候得共、今般御開拓使御出張以来、諸宗ハ東西御場所ヘ弐拾四ヶ寺ノ末寺取建仕候趣、(中略)北海道渡島国御開拓御盛功御満足ノ御儀ニ奉祈念度奉存候間、右ニ付十ヶ国ヘ不動尊、末院十ヶ院安置仕度奉存候、(中略)万々一、何等人心動揺差起リ候節ハ、第一探索ハ勿論ニ付候、戦場等ヘモ差出、天台宗并ニ修験道規則屹度相立、粉骨採身御奉公為相勤可申奉存候、左候ハヾ、御開拓ノ御趣意ニ基キ取締リ方相立可申ト奉存候、(中略)右為末院取建仕度奉存候 (『神道大系北海道』) |
つまり、寛純は末寺建立=渡島国の開拓という図式によって、函館進出を企図しようとしていたのであった。
ところが、この天台宗の開拓という名の函館布教に対して、受け容れ側の函館において、神官菊池が次のような警戒心を強めた伺書を開拓使に提出したのである。少し長くなるが、そのまま引用すると、
以書付奉伺候 神職修験ノ徒兼々亀田・上磯・茅部三郡ノ内徘徊勤化奉加并配札候趣承知仕候ニ付、取調申候処、当時内地神職両人渡来有之、私取捜罷在候得共、別段用事ニ付罷出候ものニテ奉加配札等一切不仕候、其他神職名義ニテ廻村仕候ものハ、全偽物と被存候、唯、清光院寛純身元請ノ修験多分有之、市在奉加配札等を日職とし罷在候ハ早ニ伝聞仕候、畢竟、一社一寺奉仕住職不致、無氏子無檀ノ浮浪修験多分引込、壱人ニ付何程と運上を取建候成ニ付、自然不正ノ廉も出来可申奉存候、先当市中ノ分ハ彼曖眛ノ親玉不動別当清光院、当時御迭置被為在候上ハ、信者ノ厚意ニ可任奉存候得共、在村ノ分、同人始身元請修験一人たり共銘々ノ氏子中権柄ニ奉加配札等向後不為致段、触下ノもの申出筈ニ付、別紙ノ通相達申度奉存候間、御差支有無奉伺候、且村役人ヘも厳確御布告被成下候ハバ、偽物始浮浪修験共欺良民候弊害洗除可申哉ニ奉存候 以上 明治辛未六月十八日 社家触頭役 菊地重賢 開拓使御中 (明治四年「社寺届」道文蔵) |
神官菊池は寛純のことを「彼曖眛ノ親玉不動別当清光院」と称して、不快感を隠そうとはしない。菊池は寛純らの市中奉加は「信者ノ厚意ニ可任」としながらも、在村については許さないとして露骨な反目感情を表明している。
函館において神仏分離をめぐる寺社間の対立は、以上のように天台宗の教線拡張という開教を契機に発生したものであり、前の江差正覚院とは同一レベルではない。その意味でいえば、函館の神仏分離をめぐる寺社間のトラブルは比較的少なく、「妥協・融合」の色彩が濃厚であるといえよう。