北海道開拓を夢みる寺院

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 松前城下寺院の開教論理を、最も近代的に顕現化し、立案計画した仏教者による開拓書がここにある。それを次に少し冗長になるが、紹介しておきたい。かつて、函館に住居したことがありその当時泉涌寺に属していた山本度五郎なる者の手になる明治3年9月の「開拓見込書」である。
 
     開拓見込書
一、東京箱館等ニ罷在失産難渋ノ窮民夫婦者百人召抱壱ヶ村拾軒ツヽ住居家相建産業為致可申候事
一、壱人ニテ一ヶ年金五拾両掛リ候積リを以夫婦ニテハ金壱万両相掛リ可申、右出金方ハ越前ノ国ノ住人布目五郎兵衛、阪井仁平治両人ニ御座候、且又住家壱軒世帯道具并耕作道具一式ニテ金五拾両ノ見込ニ御座候、十ヶ村百軒ニテハ金五千両ニ相成申候、此金ノ義ハ海漁産物ノ余財を以出金可致見込ニ御座候事
一、五ヶ年ノ間、右ノ通、金一万両ツヽ救育金差出、其後五ヶ年ノ間ハ、産業ノ余徳を以夫婦ノ者共今日を相営候様為致可申ノ見込ニ御座候事
一、十ヶ年相立、耕作毛色宜敷御座候節ハ、御地面相当ノ御年貢上納方為致可申見込ニ御座候得共、此義ハ其節ニ至リ租税方ヘ御伺ノ上御下知可奉受候事
(中略)
一、蝦夷地ノ儀ハ誰人植付候儀ハ無之候得共、桑の実鳥糞ヨリ植付ニ相成自然と桑の木沢山ニ生立有之候間、春中蚕産業為致度奉存候、既ニ旧幕府御時代度五郎儀、五ヶ年前寅年より蝦夷地一円蚕種紙取扱方肝煎役被仰付、渡島国一円手薄ノ者ヘ蚕種紙仕込金并飯米塩味噌莚等貸渡し養蚕為致、種紙製造ノ上箱館御役所ヘ指出し、外国行ノ御免判頂戴仕、年々外国ヘ売渡し多分ノ産業相立候義ニ御座候処、去々辰年旧幕府ヨリ御同所御引継已来清水谷殿ヨリも不相替出精尽力可致与被仰渡、同年七月中御賞誉御寄附頂戴罷在候、就テハ今般開拓ノ地所ニおゐても、前書同様蚕種紙製造仕候得共一廉ノ御国益相開き御儀ニ御座候、聊人力越相用ひ不申天行自然ニ出産ノ桑ニテ、内地同様製作相成候間、往々ニ至リ何寄ノ産物ニテ外国ヨリ多分ノ金幣交易ニ相成候儀ニ御座候事
(以下略)
三拾有余年前ヨリ蝦夷地箱館           
住居 度五郎事         
当時 泉涌寺家来      
山本度五郎    
      明治三壬年九月
(明治四年「社寺届」道文蔵)

 
 右の開拓見込書は、泉涌寺という仏教寺院の側で計画したものであり、安政4年の松前城下寺院の寺院開教=地域開拓という論理を継承しながらも、より一段と具体的に掘り下げた計画書となっている。例えば、100人を1村に住まわせ、1人につき1年50両の支度金を備えるとか、10か年の就業計画を立て、養蚕業を主業とするとかと、実に綿密なプランとなっている。
 また、同じ寺院側の開拓計画でも、明治5年に増上寺が開拓使に提出した「方今、文明開花ノ御趣意遠在隔島ノ辺地ニ至迄専一ニ御所置被下置、難有奉存候……(当郡亀田村内ニ)小教院創建ノ上追々四方御管内ノ教徒ヲ誘引シ以テ四教兼学成功ニ至リ候得ハ、彼文明此北地ト共ニ開花センコトヲ欲ス」(明治6年「教部省関係書類」道文蔵)のように、寺院の開教=文明開化という等式に基づく開拓計画も構想されていた。