函館においてキリスト教が庶民レベルで受容されて定着するまでの道は、決して平坦ではなかった。あるいは、長崎同様、幕末の開港場であるがゆえに、他府県以上にさまざまな障害があったのかもしれない。否、北海道ないしは函館は、開港場であるのに加えて、対ロシアの対外政策の中で「北門の鎖鑰(やく)」の任を自他ともに認めていたのであるから、長崎にも増してキリスト教の庶民化が困難を極めた地であったといってもいいかも知れない。
安政5(1858)年の日露修好通商条約とその翌年のロシア領事館設置に、近代函館キリスト教史が始まることは論をまたない。がこの期は、明治元(1868)年の「五榜の掲示」にいう「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ、若不審ナル者有之ハ其筋ノ役所ヘ可申出」という、旧態依然のキリスト教=邪宗なる観念のもと、国内における受容は厳しく禁じられていた時期でもあった。
そのキリスト教への信仰が合法的に容認されるようになるのは、明治6年2月24日の「禁制高札の撤去」においてであるから、その意味で、函館においては、安政6年~明治6年の14年の期間は文字通り、キリスト教の受難の時期であった。
既述したように、明治初年の函館宗教界は、神道にしてもまた仏教にしても、ともに対キリスト教に対して異常なまでの邪教観を抱いてそれを排除せんとしていたし、明治5年の教部省-大教院による神仏習合的な国民教化においてはそれが極限にまで達していたのである。そうしたことに少しく思いを致すなら、函館におけるキリスト教の受容とその定着も決して容易ではなかったことが、まずもって察せられよう。
外国人の眼にはキリスト教を邪宗視することは、「方今の文明なる時勢ニハ合ざる御所置なる事は先差置自然と交際上差響き可申事と存候」(『日本外交文書』1-1)の一文に徴する如く、近代文明期にそぐわないのに加えて、外交的にも支障がある一大案件と映っていた。上記の一文は、明治元年5月24日に米国公使がキリシタン禁制高札に対して開陳した1節であるが、それは日本人のキリスト教=邪教という宗教観念に対する偽らざる抗議表明でもあった。こうした外圧にも相似た思想抗議を蒙った明治政府にしてみれば、幕末の不平等条約の克服を思うとき、どうしても直視しなければならなかったのが、キリスト教の解禁問題であった。
事実、明治5年1月の頃、井上馨は長崎のキリシタンに対して、「今般不軋ノ輩スラ寛典ニ被処候儀ニ付、格別ノ御僉議ヲ以、右異宗ノ徒赦免被仰付(中略)県下ノ民籍ヘ編入候歟、又ハ当人共望ノ地ヘ移住御差許、夫々生産ノ道相営候様於地方官厚ク世話為致」(『世外井上公伝』)と、寛大な赦免を行なうよう建議していたのである。
こうしてみれば、キリスト教の解禁への道程は、とりもなさず、明治政府による対外認識の深化にともなう、キリスト教=邪宗という近世的烙印の消却の過程でもあったといえようか。
キリスト教=邪宗なる烙印が取り消されるのは、前にみたように、明治6年2月24日のことであった。
函館におけるキリスト教受容の歴史には、幾多の障壁が存したことを、先に予告していたが、それでは、その多難の障壁をどのようにして乗り越え、浸透を計っていったのであろうか。
開港場函館においては当然のことながら、明治6年の解禁にさきがけて、隠れキリシタン的信仰の営みが厳存していた。それは文久元(1861)年6月2日のハリストス正教の宣教師ニコライの来函に始まる。明治2年に一旦は母国ロシアに帰還したニコライが再び来函して布教の礎を固めるのは、明治4年のことである。
安政6年のロシア領事館と時を同じくして建設されていた聖堂には、この明治4年のニコライの来函を機に、ある信者群が結集するようになる。ある信者群とは、こともあろうに、函館市中の信者ではなく、仙台県出身の士族を中心とするメンバーであった。この仙台県士族のキリスト教信仰が発覚して、開拓使-函館支庁の一大政教問題と化したのは明治5年、それは教部省-大教院が設置された年であり、またキリスト教の解禁の前年であるから、キリスト教をめぐる諸問題がにわかに一大時局化する時期のことであった。