明治6年の頃、社格問題で相互に確執し合った正八幡=亀田八幡宮と元宮八幡=函館八幡宮も、開拓使の計らいで函館八幡宮を崇敬社とすることで一応の決着を見た後は、さしたる抗争もなく平穏に庶民と融合していった。
開拓使の崇敬社に任じられた函館八幡宮は、明治10年に国幣小社に列せられたが、同11年と12年には2度も火災に遭い、そのため13年には会所町から現在地に遷座しなければならなかった。
明治5年の教部省設置および教導職制定を受けて、両八幡宮が市民の教化の要となって機能したことは当然であり、それは教導職が廃止された明治17年以後も変わることはなかった。いうなれば、近代北海道の神道界が担う北海道開拓=「定着の論理」と近代天皇制の浸透という2つの宗教課題を両八幡宮は着実に達成していったのである。
いくら神社といえども、その宗教課題を果たすにはそれ相当の経済的基盤が必要不可欠である。教部省の通達によると、神社の賽物や初穂料などの収入は、官国幣小社の場合、教導費用に10分の4、社頭雑費に10分の2、神官給与に10分の4を、その他の諸社の場合は、教導費に10分の3、社頭雑費に10分の3、神官給与に10分の4を割り振るよう決められていた(「開公」5735)。ちなみに、明治15年当時の函館八幡宮の月ごとの経費は、総額71円で、その内訳は、3名の神官俸給が24円、雇給が14円16銭、庁費が17円10銭4厘、営繕費が5円50銭、祭典費が10円23銭6厘であった(明治15年度「神社費明細表」道文蔵)。
当時における両八幡宮の祭礼はなかなか盛況で、その様子を「函館新聞」は 「六・七の両日ハ亀田村八幡社の例祭にて手踊・相撲等を催ほし中々賑やかでありしよし」(明治14年10月10日付)と伝えている。
また祭礼の出費についても「今度の八幡宮祭礼に市中より奉納したる山車や踊野台の惣入費は金千六百円余にて、又た祝儀として方々より貰受けし惣金額は千三百五十円許りなり」(明治17年8月20日付「函新」)と、かなり盛大な祭典が繰り広げられたことを伝えている。
神社が興行するその時々の例祭ほど、当該地域の人々の心を和ませるものはなかった。神社が北海道開拓の中でも、とりわけ人心に「定着」の心を扶植する機能を発揮したという所以でもある。