人間として誰人も免れられない死、その死を近代函館人はどのように処理し葬祭として取り扱ったであろうか。明治政府は、明治6年に火葬を仏教の埋葬であるとして禁止していた。現に函館においても維新後は一貰して土葬が行なわれていた(「高龍寺移転一件」道文蔵)。
しかし、明治8年に及び、「今般火葬解禁ノ儀布告候」(「函館支庁日誌」道文蔵)と、火葬の禁が解けることとなった。ただ函館にあっては、その火葬場設置を無条件に認めた訳ではなく、「人家接近の地ニて臭烟市中へ蔓延致シ健康ヲ害」(杉野家文書)さない、従来の火葬場より山奥の「台町上南詰山際」の地に限定していた。
このように、明治8年に火葬が解禁になったものの、明治12年の高龍寺移転に際して、高龍寺が悪臭を放ち甚だ不衛生であるから火葬化したい旨を開拓使に申し出ていた(「高龍寺移転一件留」)ことが端的に示すように、この明治12年の段階においても、土葬と火葬とが併存していた。そのいずれをとるかの二者択一は檀家の意に任せられていた。
また、「函館新聞」の明治11年11月6日付の記事として、当時、火葬場は山背泊1か所しかないので狭く、難渋していたため、5か寺が大森浜方面にもう1か所増設したい旨を開拓使に申請したことが報じられている。
市中寺院のこの火葬場増設要求は、明治12年10月3日、高大森(東川町裏手字高森)に認められ、それ以後、函館も2つの火葬場を持つこととなった(明治12年「社寺願伺録」道文蔵)。思うに、函館にあっては明治8年の火葬解禁以後も、土葬も行なわれていたが、前述の如く、再三にわたる市中寺院の焼失もあり、加えて高龍寺に代表されるような悩みも存したことに思いを致すなら、年ごとに火葬化に赴いていったと判断してよいだろう。ちなみにいえば、その当時の火葬料は、15歳以上が1円、5歳以上が70銭、5歳未満が40銭(明治22年11月23日付「函新」)と、年齢別制によっていた。
一方、キリスト教文化が年を追うごとに市中に浸透し、一定の信者を獲得していったことを反映し、明治18年に及んで、埋葬の上にもある変化が生じることとなった。「埋葬の自由」がそれである。すなわち、函館においてはそれまで、土葬であれ火葬であれ、その埋葬葬祭は悉く寺院が行なってきていたが、明治18年を機にして、「教院・教会所」においても葬祭が可能になったのである(明治18年6月12日付「函新」)。この「埋葬の自由」の獲得こそは、函館におけるキリスト教が真の意味で、市民レベルで受容・定着したことを測れるひとつのバロメーターであると思われる。
以上、函館の近代宗教界は、神道・仏教そしてキリスト教は、それぞれ独自の宗教課題を抱きながらも、明治5年の教部省-教導職の設置、明治17年の教導職廃止を分水嶺として、神道が各神社間の横の関係を密にしながら、いよいよ首座を固めていき、寺院は神社との連絡をとりながらも自立の道を模索し始め、対するキリスト教も着実に信数の増大を図りながら、市中の理解も得ていこうとしていた。その三者が三様に描く宗教構図が、近世的伝統の回転体であったことは、改めて言うまでもない。