育児会社

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 表13-5 娼妓一時休業外届出数
届出内容
件数
一時休業届
 (病気)
 (妊娠)
寄留替
鑑札書換
就業届
等級替
寄留届
死亡届
逃亡届
26
18
8
55
9
7
1
3
1
5
107

 
 26年度の「娼妓一時休業及寄留替届書類綴込」という書類がある。これを整理分類したのが表13-5である。届け出数107件、内一時休業届は約24パーセントの26件。理由は病気と妊娠・出産で、妊娠・出産によるものが8件とほぼ3分の1を占めている。生まれた子供はどうしたのだろうか。開拓使時代の三業規則の中に娼妓の懐妊について触れている条目がある。6、7年の規則では「若懐妊致其子成育致兼候節ハ早々可願出事、堕胎ノ義ハ兼テ御布令ノ通決テ不相成」とあり、9年の規則になると「娼妓懐妊分娩ノ上其子育成ノ目途無之モノハ、早々取締人ヲ経、育児会社入ノ義、町会所ヘ可願出事」と生まれた子の養育機関として「育児会社」をあげ、そこに預けるように指導している。では最後に芸娼妓たちの子をはじめ親が養育できない子どもたちを養育した機関「育児会社」について、明治6年「開拓使事業報告原稿」(道文蔵)を中心に沿革をみてみよう。
 育児会社というのは、幕末に函館に来た町医槙山淳道が堕胎防止のために市中の有力者や寺院などに呼び掛けておこした育児講が発展したものである。この講は堕胎希望者を極力諭して出産させ、出産後は講の資金でその子を養育するというもので、この講の篤志をたたえた函館支庁の岡本長之大主典の建言により、4年10月開拓使は「奇特ノ義ニ付、右入費ノ内ヘ今般金五百両下ケ渡、育児会社差許候」と結社を認可、社長に槙山淳道、副社長杉浦嘉七、世話方小島松右衛門・高野誠兵衛・佐野東造(町医)および町役人一同を申し付け、刑法課が取り扱っていた贓贖(ぞうしょく)金(犯罪の罰金など)からの500円を与えた。この500円と寄付金を基に育児会社は運営された。早速堕胎防止と育児会社の利用を広く一般に呼び掛ける「育児会社大旨」が配付された。函館支庁も「堕胎ノ儀ハ天理人道ニ背キ候義ニ付致間敷筈ノ処、貧民等一時心得違ヲ以堕胎致候者有之…今般有志ノ者共育児会社差許候条、貧民等出生ノ小児養育差支候者共ハ、無遠慮右社中ヘ申談シ産育ノ道相立ヘシ」(『布類』)と堕胎の禁止と育児会社の利用を奨励した。
 翌5年3月、先の黒田次官巡視の際に下付された大工町(現青柳町付近)の地に分娩所を建て、仮に「育済館」と名付け、乳母が見つかるまでの短期間ここに乳児を収容した。その後育児会社は何度かの資金難に陥りながらも、官からの下賜金もあり年額1200円の補助金それに寄付金などで運営を続けた。