35年7月12日「函館公論」と改題。「改題の辞」にいわく「敢て其内容実質に於て変化したるにあらず、只進歩せるのみ、発達せるのみ、少年青春時代の朝日新聞ここに進歩発達して、函館公論なる少壮有為の時代に入れる」と。発行兼印刷人川上嘉吉、編集人阿部小市、主筆は引き続き青木清治郎。月曜と大祭翌日休刊、7段組4面で1部1銭5厘、月極め25銭、翌36年4月から再び6面に変更し6月から1部2銭となる。
改題後の函館公論の社説には、35年8月10日に行われた道内初の衆議院議員選挙関係の論説や記事が非常に多い。この選挙に函館区から立候補したのは、平出喜三郎、馬場民則、内山吉太の3名。函館公論の記事によると既刊の3紙のうち立憲政友会の機関誌である函館日日新聞は同会函館支部幹事長平出喜三郎を応援、中道の立場を保持している函館毎日新聞は同社の設立者でもある弁護士馬場民則を支持し、当の函館公論は候補者選定で平出派と分裂した常野正義が推す内山吉太を支持している。そのため函館日日新聞との衝突が絶えなかったらしく同紙を攻撃する記事が目につく。この初の衆議院議員選挙の結果は、平出365票、馬場199票、内山170票で、内山は落選している(『函館市史』統計史料編)。
函館公論が支持した内山は10年に来函、函館を根拠地に本道および樺太漁業を経営、28年にサガレン漁業組合総代となり、30年代には立憲政友会函館支部創立委員、幹事となって党勢の拡張に努力した人物(『北海道人名辞書』)で、初の衆議院議員選挙で支部幹事長の平出に負けた。この内山の落選が関係しているのか、蝦夷日報以来の主筆青木清治郎は翌9月10日に退社、10月1日に社員の一大更迭が行われ、後任に菅原精(菅原滑禅、元函館日日新聞記者)が就任している。