町会所開設の新聞縦覧所

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 明治の初期、新聞はどのようにして一般の人々へ普及していったのだろうか。明治5(1872)年、東京・横浜方面には無料で新聞を縦覧させる新聞縦覧所が開設されたが、その後この種の施設は各地に造られるようになり新聞普及の大きな役割を担った。函館では、函館の人々にまず新聞の存在を知らせ、その効用を理解して進んで新聞を購読してもらい、それによって函館の人々の開明化を図っていこうという意図のもとに、6年町会所の手によって新聞縦覧所が開設されることになり、5月12日、松代伊兵衛・白鳥衡平両戸長より新聞縦覧所設置に関する伺書が函館支庁へ提出された(明治6年「市中諸願伺届留」道文蔵)。こうして翌月19日には、3坪ほどの小さな新聞縦覧所が人通りの多い内澗町の基坂近くに開設されたのである(明治6年「御触書」)。
 この新聞縦覧所は午前8時から午後5時まで開所され、貴賎を問わず入場料は一切無料だった。すべての人々に無料で開放されたという点では、この新聞縦覧所はまさに公立図書館の先駆けともいえるものであろう。また同所には絵草紙などを売って利益を得ることが許された無報酬の番人(管理人)も置かれた。常設の新聞は東京日日新聞と横浜毎日新聞の2紙で、この2紙はこの頃大蔵省が買い上げ各府県へ配布していた3紙の内の2紙でもあった。
 こうして函館でもそれまでは役人をはじめとする極一部の人たちだけの読み物でしかなかった新聞が、縦覧所を媒介として、ようやく一般の人々の目にも触れるようになっていったのである。