新聞縦覧所を併設した魁文社
この新聞縦覧所の運営は、北海道の書店の先駆けともいうべき書店「魁文社」の開店により、町会所を離れ民間有志の手へと移ることとなった。
当時函館に小学校が開校されないのは教科書を販売する書店が無いことが一因であるといわれた豪商渡辺熊四郎は(『初代渡辺孝平伝』)、8年同業者の平塚時蔵や今井市右衛門それに写真家の田本研造に相談して魁文社を結社し、官許を得て、その年8月内澗町1丁目の角に新聞縦覧所を併設した書店「魁文社」を開店した。そして同時に、既設の町会所管理の新聞縦覧所はこの魁文社内の新聞縦覧所へ合併され、施設の充実が図られたのである。従来の新聞縦覧所でも番人が絵草紙などの書物を売ることが認められていたことを考えると、魁文社はその機能を充実・拡大したものだったともいうことができる。
早速8月16日、「此度更に同区(第二大区五小区内澗町)一番地三ノ地ヘ魁文社中家屋ヲ造築シ、各種の新聞誌ヲ備ひ一層展観の便ニ供ス」(「官許新聞誌縦覧書移転御触書」、( )内引用者)という御触書が町会所から出され、新しい新聞縦覧所が魁文社内に開設したことが知らされた。魁文社内に併設された新しい新聞縦覧所は、縦覧時間を午後8時まで延長し、常設の新聞を東京日日新聞、横浜毎日新聞のほかに報知新聞、読売新聞、絵入新聞などを加えて7種類に増やすなど一層充実された。さらに翌9年には、施設の公共性より従来は町会所が負担していた新聞の購入代金を、経営のめどが立ったとして魁文社が総てを負担することになった(明治9年「町会所金穀出納評議留」道文蔵)。こうして「新聞の存在を知らせ、その有用性を理解、認識させる」という公的事業のひとつとして行われた新聞縦覧所の開設・運営は、その開設目的を果たして町会所の手を離れ、民間の運営へと移り、「見せる」ための新聞縦覧所となったのである。
この魁文社は10年2月隣家からの出火により焼失、翌11年同地へ防火性の石造建築物として新築されたが、12年の大火に再び類焼、翌13年末に内澗町39番地(原末広町)へ新築・移転した。その時の店の看板には新聞縦覧所の文字はなく単に「書林魁文社」となっていた(13年12月10日付「函新」広告)。