今、記録に残る函館公園の絵図などを見ると、全体に純日本式庭園の趣ではあるが、例えば開拓使の徽章をかたどった星形の花壇があり、その中央には黒田開拓長官から寄贈されたアメリカ産の珍しいバラの株が植えられたり、正面入り口付近の広場には芝生の部分があったりすることから、この公園の設計には西洋風の感覚も取り入れられていたようである。
明治12年5月には、園内に開拓使仮博物場も開館したため、多くの人々が公園を訪れるようになった。同じ頃、「函館公園地小憩所腰掛店営業心得」が函館支庁から区戸長へ布達されているので、公園内には腰掛茶屋もできて益々賑わったことと思われる。いよいよ11月3日に公園の開園式が行われ、開拓使函館支庁の役人、公園世話掛、区戸長、人民総代、学校教員と生徒等が参列した。また、公園造成着手の頃より、土木工事、園内清掃作業に従事した懲役場の囚人達も参列を許可された。公園世話係を代表して平田兵五郎が祝辞を朗読したが、その中で「工ヲ重タル三万二千三百三十人ニシテ、其経費実二一万零五百余円、此内官庫ヨリ出ルモノ五千六百四十三円、人民ヨリ出ルモノ四千八百七十余円、鳴呼亦盛ンナル哉、其之ヲ為ルニ当ッテヤ、上有司ヨリ下庶民ニ至ルマデ子来シテ之ヲ為ス」と官民協力の実情を述べている(明治12年11月10日付「函新」)。この開園式の様子は官費で写真撮影されて東京、札幌、根室へも送られた。
その後、園内には貴賓客の接待や住民の集会場に使われた「協同館」が建ち、北海道最初の洋式石橋(白川橋)が完成し、さらに商人逸見小右衛門が梅、桜合わせて約5250本を植樹して趣を添えた。
函館公園は、面積約1万4600坪で函館山々麓にあり、海へ向かって位置しているため、園内の敷地は起伏に富んで眺めも良く、開園以来「名勝」として明治期に出版された多くの紀行文や案内書に載せられている。