昭和二十四年の調査

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サイベ沢遺跡発掘報告書

 桔梗サイベ沢遺跡が全国的に有名になったのは、昭和二十四年に北海道大学医学部児玉作左衛門教授、大場利夫講師の指導により市立函館博物館が発掘調査してからである。調査の直接の動機は、昭和二十四年四月十六日、北海道新聞が「函館市外亀田村大字桔梗村のサイベ川を中心に広範囲の亜炭層が発見され、露天掘が開始される。」と報じたことにある。道南地方に亜炭層があり、露天掘が開始されるという記事は、終戦後の物資欠乏の時代でもあり非常な関心と注目を集めた。当時市立函館博物館は、資料や事務室がいまだ市立函館図書館内にあって、前年八月に市立函館博物館設置条例が施行されたばかりであったため、職員も武内収太(初代館長)、石川政治(前館長)の二名のみであった。また建物の建設については市役所内に市立函館博物館建設期成委員会(会長渡辺熊四郎)があり、構想を練っていた段階であったが、同委員会は四月二十八日の会議で、サイベ沢遺跡の重要性が説明された際、建物構想とは別に亜炭採掘により遺跡が破壊される以前に発掘調査するという博物館側の方針に賛同する決議をした。殊に渡辺会長からは発掘費の一部として多額の寄付の申し出があり、早速調査の準備にかかった。
 たまたまこのころ北海道大学医学部第二解剖学教室の、児玉作左衛門教授は、網走モヨロ貝塚の発掘をして、オホーツク海岸にアリュート系人種が定着していたと発表した。児玉は函館出身で、市立函館高等学校(現函館東高等学校)考古学研究部員が指導を仰いでいた関係もあり、この調査に積極的な指導と協力が得られた。サイベ沢遺跡からは前記のように、以前人骨が出土した例もあり、この調査によって更に縄文人骨が発掘されるのではないかとの期待もあった。
 発掘に当り、五月六日北海道教育委員会に対して発掘願書が提出された。これは昭和二十四年一月、奈良の法隆寺金堂が焼失し、法隆寺国宝保存委員会が発足し、また博物館法制定の動き、あるいは参議院による文化財保護法立法化の準備等、文化財保護活動に関する一連の動きがあり、発掘調査も所定の手続きが必要となっていたためである。文化財保護法は翌二十五年制定されたが、発掘願書提出後、五月二十四日付の発掘許可書を受けたのはサイベ沢遺跡調査が北海道で最初である。
 発掘調査は四月二十八日に大場利夫が現地調査に入って打合せ会議が開かれ、翌二十九日から本格的な作業が開始された。発掘調査のスタッフは博物館職員二名と市立函館図書館から一名が動員されただけの少人数であったが、作業は北海道第二師範学校(現北海道教育大学函館分校)、道立函館高等学校(現函館中部高等学校)、市立函館高等学校(現函館東高等学校)の学生、生徒が中心となった。地元の亀田村立亀田中学校の蛯子芳信教諭も生徒を引率して協力した。この調査は戦後の文化的大事業として、地元の函館新聞、北海道新聞、NHK函館放送局が調査の経過と成果を次々に報道し、瞬く間に全国的に有名になった。
 終戦と共に日本の歴史が改めて見直され、天皇中心のいわゆる皇国史観から、人類学、考古学をはじめ、あらゆる科学的関連による日本民族の起源と文化の研究は一般からも強い関心が持たれ、『古事記』、『日本書紀』についてもこれまでの研究が再検討されるようになり、静岡県の登呂で弥生時代の集落と水田遺構が発見され、土木工事や古代農耕社会の様相が明らかにされてきた。
 発掘は七月十四日まで四十五日間続いたが、函館市内の高等学校、中・小学校ならびに江差、八雲、札幌の高等学校からも参加し、見学者を交えて一日二、〇〇〇人からの人々が桔梗の台地に集まった。函館市議会の視察団も訪れ、当時としては異例の文化事業に対する補正予算措置がなされ、調査費が増額された。また報道関係では日本ニュース映画製作所の中村誠一が撮影に取組んだ。中村は後に「カラコルム」などの記録映画を手がけた名カメラマンである。当時のニュース映画は全国的な価値あるもののみを扱い、観客は映画館へ出かけなければ見ることができなかったのであるが、サイベ沢遺跡発掘がいかに全国で注目を集めていたかがうかがえるであろう。