江別文化の名称は、札幌近郊江別市の、旧町村農場や、対雁(ついしかり)の丘陵にある墓壙群の特異性が認められたことから名付けられた。後藤寿一、河野道広、名取武光らの研究により、この土器文化は道央だけでなく、道東北から千島、樺太に至る地域まで広範囲な分布圏を持つことがわかったが、遺構としては墓壙以外に住居跡や集落はまだ確認されていない。もっとも、オホーツク海岸の雄武町開生遺跡発掘調査の際、砂丘に近い丘陵から径が五メートルほど、深さ約六〇センチメートルで、柱穴ははっきりしないが、江別式の竪穴住居跡と考えられるものが発見されてはいるが、この一例だけでは住居跡と言えるかどうか疑問である。
この付近の大規模な墳墓群は江別、石狩川口、北大農場、恵庭など、河川流域の丘陵から発見されているが、これらの墳墓群にはあたかも大集落の聖なる墓域と定められていて、一定の儀式が行われたかのような秩序が見られる。墓から出土する江別式土器は四形式に分けられていて、墓の形態や副葬品から、それぞれ時代的推移が認められる。しかし、これら四形式の土器も、道南地方では断片的に出土するのみで、墓壙群の発見例はなく、八雲、七飯、江差などで土器片の発見があったのにとどまっている。これらの現象から、道南には江別文化はなかったと考えられていたが、西桔梗E2遺跡で江別式後半の墓壙が発見されたため、江別文化の民族が住んでいたことが判然とした。E2遺跡は縄文時代中期の五角形プランの住居群が発掘された遺跡であるが、この東側の丘陵上に右の墓壙があった。
西桔梗E2遺跡の墓壙(昭和47年調査)
E2遺跡の墓壙は、長径一・五五メートル、短径一・四メートルの楕円形で、地山の黄褐色粘土層を深さ〇・四五メートルに掘っている。江別Ⅲ式の深鉢形土器が三個副葬されており、うち一個は墓の底にあって高さ三六・五センチメートルもある大形の土器であった。この大形土器を取り除いたところ、四隅に柱穴状の穴が発見された。これは柱を立てた穴ではなく、水はけを考えたものか、あるいは竪穴住居を模した作りであったのかも知れない。埋葬人骨は残っていなかったが、それを覆う土の中から小形の副葬用土器が二個出土した。一個は片口の注口土器で、他の一個は胴部にくぼみがある特殊な土器で、底部を壊してから副葬している。容器を壊して副葬する葬法は前にも述べたが、同様のことがアイヌ人の埋葬法にも見られる。
墓壙は一基のみより確認できなかったが、すでに削り取られた丘陵にも幾つかの墓があったのではないかと思われる。
西桔梗における江別式墓壙の存在は、盛岡市永福寺山遣跡の墓壙群にも関連する。永福寺山遺跡は北上川の上流域にあって、独立丘上に約一〇基の墓壙がある。昭和四十年の調査によると、墓の大きさは長径一・五メートル、短径約一メートルの楕円形で、西桔梗のものと変りない。深さは一メートルで西桔梗より深いが、江別と類似し、副葬品には刀子、曲(まが)玉、朱塗玉と土師器(はじき)や江別式土器が出土している。土師器とは、古墳時代に作られた土器のことで、土師部(はじべ)など専門職によって生産されたものである。江別式後半の土器と土師器という異質の文化の遺物が共に出土する共伴現象と、刀子という鉄器が副葬されていたことは、時代的に西桔梗において江別式土器を製作して使用した民族が、岩手県ではすでに古墳文化と接触して鉄器を導入していたことを証明するものである。東北地方では青森、岩手、秋田、宮城の各県で江別式土器が発見されていることから、この地方では古墳時代後半になってから古墳が築造され、土師器を生産するようになったものであろう。江別式土器が東北地方北部に分布する状況は、まさにフゴッペ洞窟人の南進とも言えるものである。この北海道特有の文化が東北地方に伝播(ぱ)したという現象は、江別式土器の後半の時期になって、北海道に居住していた民族が、鉄器文化や酒の原料となる米やアワ、ヒエなどを求めてこの地方に渡ったためと見るべきである。また、河川流域に遺跡があるのは、サケ、マスの漁労や狩猟が彼らの生活の基盤であったからである。北海道において、江別式土器の後半から石器が急速に減少するのは、東北地方との交流によって鉄器がもたらされたからで、これを裏付けるかのように、西桔梗でも江別式土器に伴う石器は発見されなかった。
江別式土器を使用した民族は、古墳時代前期から中期に東北地方に進出し、後期には各地域で同化して、東北地方特有の古墳文化を形成するが、墓壙などから出土した人骨は、これまでの人類学的研究によってアイヌ人的特徴を有するといわれている。とすると、続縄文時代に、アイヌ民族の祖先が北海道で江別文化を築き、東北地方北部まで進出していたことになる。東北地方北部における考古学研究では、この江別文化の進出と古墳文化との関係が極めて重要な意味をもっているのである。