煉瓦台貝塚は、湯倉神社裏の湯川貝塚と共に、昭和三十年ころまで、道南地方においては珍しく原形のまま残されていた代表的な貝塚であった。それが昭和三十六年には後述するように湯川貝塚に次いで宅地造成のため消滅してしまった。社会科の教科書に出てくる“貝塚”は、よほど立地条件のよい所でないと見ることができなくなった。煉瓦台貝塚近くの亀田小学校や桐花中学校の生徒などにとって、社会科学習上には格好の場所であった。当時一部の人たちにより、保存運動が提唱されたが、やむを得ない事情もあって保存が不可能となり、現在はわずかに痕跡(こんせき)をとどめるに過ぎなくなった。また、年を同じくして赤川の水源地近くに発見された赤川遺跡の貝塚も、調査されることなく宅地化によって姿を消してしまった。
煉瓦台貝塚が発見されたのは昭和二十三年である。桐花中学校の生徒が函館市立高等学校(東高校)考古学部に遺物を持ち込んだことから、考古学部員の現地調査となり、湯川貝塚と同時期の新発見のこの貝塚の存在を確認した。翌二十四年九月、北海道大学の大場利夫を指導員に迎え、函館市立高等学校考古学部員が、二十三日から一週間かかって貝塚を発掘調査した。この報告は、昭和四十年発行の「函館郊外煉瓦台遺跡」(『北方文化研究報告第二十輯(しゅう)』)に掲載されている。また、昭和三十六年に行われた緊急調査の報告は「北海道煉瓦台遺跡調査略報」(『先史学研究4』昭和三十七年)や、「北海道煉瓦台集落遺跡について」-日本考古学協会第二十九回総会発表・昭和三十八年-などで報告された。