衰退のきざし

75 ~ 76 / 1205ページ
 寛文九(一六六九)年日高のアイヌシャクシャインの蜂起に驚いた松前藩は、東西の和夷の関門に兵を派遣し防備を固め、蜂起の地へは征伐軍を出動させたが、この時東の関門である亀田へは酒井左兵衛と兵二〇〇名を派遣し防備を固めさせている。また前述則田安右衛門の『狄蜂起集書』によれば、土地の者たちが協力して防備拠点を構築していることが知られる。このとき初代榊吉右衛門は亀田代官佐藤彦左衛門を助け、防備に全力を尽し、戦後福山に招かれ、亀田村において宅地や山林および鞍、茶器、裃を賜っている(榊氏系図)。
 この後も元禄五(一六九二)年亀田村に水田を試みる者が現われる(二、三年で廃止)など亀田村は繁栄を続けて来たのであるが、元禄の終わりごろから急激に衰えを見せはじめた。衰えの原因は、亀田港の水深が浅くなり、はなはだ使用しにくくなったことである。『福山秘府』(年歴部巻之五)によれば、元禄十五(一七〇二)年「秋七月二十九日、大雨逆浪、東部亀田村洪水、毁壊民家甚多。」、元禄十六年「自夏六月四日至十日大雨洪水(中略)是時東部亀田邑亦洪水、衛所及禅寺一宇闕流、破壊家三十戸」とある。