亀田地域ではいつごろから農産物に税が課せられたか明らかではないが、享保二(一七一七)年の『松前蝦夷記』に
「東郷亀田村より畑多所ゆへ、馬大豆年々六十俵七十俵斗収納申よし」「松前西東の地にて雑穀物、粟、稗、大豆、牛房、大根、瓜、茄子、并麻、多葉粉、総て畑物土地相応に出来申候。尤所々畑作有レ之、百姓勝手次第作り取のよし、年貢納り申候ハ亀田の馬大豆斗也。」
とあって、この当時年貢として支払いを命ぜられたのは亀田の馬大豆のみであり、他地方では課税されていなかった。享保以前の松前藩の主要財源は漁業税、鉱山税、交易税その他であり、はじめて間もないため収量も少なく、また出来、不出来が多かった農作物はあまり重要視していなかったようである。ただ亀田村の馬大豆にのみ課税されていることは、松前藩の備馬(乗馬、軍用などに利用)の飼料として確保する必要があったためであろう。
その後畑作が次第に発達し、穀物の収穫もある程度順調になったらしく、享保年間亀田奉行に達した制令に(新北海道史第二巻通説一)
穀物役、西東在々畑方見分の上にて七三(アル書七斗)の穀役可二申付一候。亀田支配の百姓其前々より穀役致し来候通相納可レ申候。惣て在々何方にても畑蒔候大目の百姓は穀役相納、給所の百姓は其地頭へ可レ勤事。
と記されている。
亀田奉行所支配地内の所では百姓の取り分七、残りの三は税として亀田奉行(松前藩)または藩士の知行地の場合は知行主の藩士のもとに納められた。
この当時は焼畑方式の農業のため、毎年のように耕作地が場所を変え、耕地面積も異なっていたのであるが、約五年に一度受ける検地により年貢額が定められていた。
このようなことから享保年間ごろには百姓の私有地というものはほとんど見られなかったのではなかろうか。
なお『明治十九年 各村創立聞取書』には前記のとおり享保十三(一七二八)年の神山村の様子が「神山村農業喜右エ門外二名者共並南部地ノ者、津軽地ノ者十四名程都合十七名尽力ヲシ、今赤川村於テ鋤鍬ノ器械ヲ使用シ、初テ畑ヲ開キ粟、稗及大豆、蘿葡 蕪菁ノ類ヲ播収」と記されており、この時代の赤川村の開拓の状況や畑作物の種類もわかる。