稲作の衰退

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 前幕府直轄時代、箱館奉行の農業奨励政策により亀田、大野、七重、上磯の諸地域では、ほぼ畑作が普及し、作物も粟(あわ)、稗(ひえ)、蕎麦(そば)、大根、ごぼう、葱(ねぎ)、瓜、茄子(なす)、豆類などが収穫されるようになり、大野、上磯、亀田地域の中には水田耕作も行われるようになった。しかし、後松前藩の時代になると藩の経済力の弱さ、不熱心さと、天候の不順のために稲作は衰えを見せはじめ、稲作はほんの一部を除き、不可能になるような状況であった。
 天保九(一八三八)年の『蝦夷情実』は亀田近村の農業の有様について次のように記している。
 
  亀田村、七重、一本木村、文月村、此辺村々箱館ノ澗ノ廻リ海岸付平地ニて、野原、公辺御料の砌ハ開発の田畠此辺なり、今ニ作付有之、近年不気候ニ付、稲作不作、田方ヘハ稗ヲ作り、畠方ヘハ粟、大豆、大根其外青物類ヲ作候様見へ候
 
 このように亀田平野では天候不順のため、水田には稗を作り、畑には粟、大豆、大根、青物類等の寒さに強い作物を植えるなどしているが、稲は植えることができず、稲作は亀田地方から姿を消し始めていることがわかる。