前松前氏時代の蝦夷地の森林は、本州方面のように荘園、地頭領のようなものはなく、ほとんどが松前藩の所有といってもよく、村人が自家用とする程度の雑木は自由に伐採して薪や炭として消費しても差支えなかったようである。一方本州方面ではこの時代に、木材の減少と需要量の増加現象が起きており、やがて蝦夷地南部のヒバ材(アスナロ)に視野が向けられるようになった。内地からの杣人(そまびと)がいつころから蝦夷地南部に入って来たかつまびらかではないが、『津軽一統志』寛文九年の条に、「松前檜山当年三、四万杣取仕候由」と記されていることから、このころにはすでに伐採が始められていたものと考えられる。
その後延宝六(一六七八)年には江差檜山の伐採を認め、森林の保護および盗伐、密売買の禁止を布達し、更に設置年代はつまびらかでないが、檜山奉行を設置するなど、藩財政確保の面から管理監督を厳重にした。しかしその後元禄八(一六九五)年の山火事、その他元文四(一七三九)年の盗伐などにより、山は荒れ始めたが、松前藩はこれに対して積極的な育成対策をとらず、ただ取締りを強化するのみであったため、次第に衰微するようになった。このようなことから、前松前氏時代の林業は主として伐採の時代であったといえるであろう。