助郷と農村の不振

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 飢饉の発生により農業が衰えたことは前に述べたが、このほかにも農業を不振にした原因の一つに助郷の問題がある。
 天保九(一八三八)年には、幕府巡見使が視察に来るという特殊な事情もあるが、前掲の『御用書留』に次のような記事が見られる。
 
  一 道橋普請人足廿三人、名主六郎組頭平蔵差添亀田村加勢差出候。八日より今日迄九拾弐人差出し為念記
     閏四月十三日
 
 天保九年四月八日から十三日までのわずか六日間に九二人の人足を差出している。鍛冶村の天保十二年における戸口は戸数二八軒、人口一二九人(天保九年の人口統計がないので十二年の統計を利用)であり、三年後の統計であるが、一二九人の中には当然人足として出られぬ老人、婦女子が含まれている。右の『御用書留』にはこの人足九二人のほかに延ベ一四頭の馬もかり出されていることが記してある。
 これから農事を始めようとする大切な時期に、一家の働き手と馬をかり出されるということは、ただでさえ飢饉後で、生活するのがやっと、という農家にとっては実に大打撃であったであろう。また、同資料には次のような記事も見られる。
 
  一 御足軽中壱人御用ニ付、上山村御通行ニ付、人足壱人差出し、此日は道橋普請ニ付、亀田村え村中不残加勢至(致)し、札番富久ニ付、書役継送リ申候。
  一 同御拝借米一俵 上山村迄御下ゲ申候間、札番壱人差遣し、受取申候。以上
   以廻書申進候。然ば昨日伊藤清次郎様御帰り被成候て被仰候ニは、明十六日鍛冶村、上山村、赤川村え申合亀田村より浜迄人馬を以道普請可致様被仰付候間、一ケ村ニ付馬拾五疋宛、人足は村中。朝五ツ時に爰元為相詰候様御手配可被候。尤元村ニは馬三拾疋、人足は不申及、皆掛り為致候様手配致置候。右の段廻書を以申進候。
     閏四月十五日
                          亀田村 名 主 所
       鍛次(冶)村
       上山村 名主
       赤川村
 
 以上のごとく、四月十五日には、全村民に道橋普請に出ることが命ぜられ、各村は馬一五頭ずつを出すよう布達された。このように鍛冶村では全村民が道路工事、馬方その他として働き、それでも不足のため女、子供まで出し、そのうえ最後には旅人までかり出し、助郷に当っていた。この場合旅人というのは村に籍のない他国人という意味で、寄留人のことである。
 
     鍛次(冶)村
           御役人中
     上山村
  右人足御百性(姓)不足ニ付旅人のものえ手伝人足申附、万九郎、長松、兼松、谷森 彦七藤太郎 外御百性石五郎、作右衛門、組頭六三郎差添差出し申候。
    五月廿七日
 
 人手が頼りのこの当時において、特に農繁期においてこれだけの人数を出すことは、田畑の耕作に大きな影響を与え、農民の生活を圧迫したものと思われる。