四稜郭を構築した榎本軍側の記録である『函館戦記』(彰義隊某の手録)や、『函館戦史』(丸毛利恒『旧幕府』第二巻)によれば、構築当時より四稜郭と称していたことが知られる。別に大鳥圭介は『幕末実戦史』の中で「神山の小堡」または「神山の砲台」とも記している。
一方、官軍側の記録では、普通地名を付けて「神山台場」といいならわしていた。岡山藩、福山藩関係の記録では「神山新五稜郭」とか「新五稜郭」と書かれ、福山藩の「阿部正桓家譜」(復古外記 蝦夷戦記)によれば「新築頗ル工夫ヲ尽シ、賊恃テ以テ本営ニ次ク者トシ、称シテ新五稜ト言フ。」と記されている。
四稜郭の建設時期について詳しく述べたものはないが、『四稜郭史』(服部安正)は古老の語るところを参考として「四月下旬〔はっきりしません〕に選定位置に四稜の塁を築き始めました。」「これに費した人数は、城中から士卒が約二百名、付近の部落〔赤川・神山・鍛冶村〕から人夫約百名及び郭の付近に炊事場を設けて子女を集めて炊事をさせ、ほとんど昼夜の区別なく働き、数日で出来上りました。」とあり、前記『函館戦史』には、「五月朔日(ツイタチ)桔梗野辺ニ胸壁数ケ所ヲ築キ大砲ヲ備ヘ兵ヲ出シテ之ヲ戍ラシム是ヨリ先上山ノ山腰ニ壁ヲ築キ是ヲ四稜郭ト云フ」と記されている。更に前記の『幕末実戦史』では「神山の小堡未だ完成せざれども」と記されている。これらのことより榎本軍は官軍の攻撃に備え、四月下旬より急きょ士卒農民合わせて約三〇〇人により四稜郭の構築をはじめたが、完成しないうちに官軍の攻撃をうけたことがわかる。
四稜郭の設計者については、徳山藩関係の『奥羽並蝦夷地出張始末』(岩崎季三郎・市立函館図書館蔵)によれば、「仏人フリヨネーと申して徳川雇入の陸軍教師築く所にて新五稜郭と称し……」と記されている。