前に述べたごとく、明治二十年代ころまでは亀田地域の畑作物の中心は大豆、蕎麦、小豆、粟、稗など江戸時代以来の作物であった。しかし明治時代後半に入り明治前期における開拓使の勧農政策である大根、馬鈴薯、小麦などの栽培奨励が実を結び、更にこれらの作物及び野菜が換金作物として農家にとって都合がよいこと、函館の消費量の増加、稲作の進歩による水田耕作者の増加などの理由によって亀田地域の農業は従来の大豆、粟、稗などの穀物中心から米、野菜中心形とも言うべき姿に変化して来た。『渡島国状況報文』は明治三十九年の亀田村の農業状況を次のように記している。
農作物ノ第一ハ馬鈴薯ニシテ、一戸平均八、九反歩ヲ作ル。薯ノ種類ハ「アーリーロース」、「トンコロイモ」〔本名不詳〕、「スノーフレーキ」等ニシテ「アーリーロース」最モ多シ。肥料ハ一反歩ニ付人糞五駄乃至十駄〔一駄約一石〕、厩肥馬車五、六台ヲ施シ、塊薯二十五俵乃至四十俵〔一俵十三貫匁〕ノ収穫アリ。一俵ノ価函館ニテ平均五十銭トス。薯ノ跡作トシテハ多ク蘿蔔(だいこん)ヲ作リ、又蕎麦、燕麦等ヲ作ル。蘿蔔ハ練馬、尾張ノ二種ヲ主トシ播種ノ際ハ一反歩ニ付更ニ人糞五、六駄ヲ施シ、平均百駄〔一駄三十本〕ヲ得ベク、豊作ニハ二百駄ヲ得ベシト云フ。一駄ノ価函館ニ於テ十銭乃至二十銭トス。其他蔬菜類ニテハ、胡蘿蔔(にんじん)、牛蒡(ごぼう)、甘蓋(かんらん)(キャベツ)、葱、蕷薯(やまいも)菜類等ヲ作リ函館ニ売買ス。但シ蕷薯ハ鍛冶、神山等西部ニ於ケル沃地ノ外ハ之ニ適セズト云フ。当村ハ実ニ供市園芸地ニシテ蔬菜類ハ当村人民ノ重モニ頼リテ生活スル所ノモノ、唯其特色ノ未ダ大ニ観ルベキモノナキヲ憾ムノミ。馬鈴薯ニ次テ作付反別ノ多キハ稲ニシテ、前記四百六十二町一反歩ノ水田ハ略ホ皆作付ヲナセリ。稲ノ種類ハ白髭最モ多ク、南部早稲、三化等之ニ次ク。肥料ハ一反歩ニ付人糞十駄内外ヲ施シ、平年八斗乃至一石二斗ノ収穫アレドモ、近年凶作多クシテ耕作者ノ困難言フ可ラサルモノアリ。米ニ次クハ大豆ニシテ重モニ大字桔梗村、大字赤川村ニ於テ耕作シ、前年馬鈴薯ヲ作リシ跡ナラバ、肥料ヲ施サズ否ラサレバ一反歩ニ付人糞二、三駄ヲ用ヒ八斗乃至一石ノ収穫アリ。次ハ蕎麦、稗、粟、大麦、燕麦、玉蜀黍(とうきび)等トス。
以上ハ当村普通ノ耕作地ニ於ケル景況ナレドモ、丘陵地ニ至リテハ地味大ニ衰リ、且ツ肥料ノ運搬容易ナラザルヲ以テ収穫甚ダ乏シク、大抵三、四年耕作シテ廃棄シ秣(マグサ)場トナシ、後年ニ至リ地力ノ稍々回復スルヲ見テ復タ耕作スルコトアリ。是レ畑地ニ荒廃多キ所以ナリ。
農家一戸ノ作付反別ハ家族ノ多少、作物ノ種類及ビ副業ノ有無ニヨリテ一様ナラズト雖モ蔬菜及ビ水田ヲ主トスルモノハ大抵一町歩乃至二町歩トシ、畑作ヲ主トシ、殊ニ大、小豆、麦等ヲ多ク作ルモノハ二町歩以上三町歩ニ至ル。大字桔梗村ノ如キハ平均一戸畑三町歩ニ当リ、其内約三分ノ一ノ地積ハ馬鈴薯ヲ作レリ。(中略)
肥料ハ人糞及ビ厩肥ナリ。人糞ハ各部落ニ於テ函館区ノ各町衛生組合ト契約シテ之ヲ酌取リ、若クハ市街ノ端ニアル人糞貯蔵場ヨリ買取リ、各自馬車ヲ以テ之ヲ運搬ス。貯蔵場ニ於ケル一駄ノ価格ハ二十五銭乃至四十銭トス。各町衛生組合ト特約スルモノハ保証金ヲ預托スルノ外代価ヲ要セスト雖モ、掃除ヲ兼ヌルト距離遠キトノ不便アリ。厩肥ハ各自飼養ノ馬ニヨリ一頭ニ付一ケ年約百駄ヲ作ルヲ普通トス。又便利ノ地ニアルモノハ搾乳場等ニ就キ牛ノ厩肥等ヲ購入スルモノアリ、其価一頭曳馬車一台ニ付二十五銭トス。或ハ藁ヲ以テ交換スルモノアリ。