明治初期の馬

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 明治初期、亀田地方で飼育されていた馬は、通称「ドサンコ」といわれていた和種馬が大部分で、駅逓、薪炭運搬、農産物運搬、道路工事、漁場出稼その他少数ではあるが乗馬、馬車などの用途があり、亀田地方の農家には必ずといってよいほど二、三頭以上の馬が飼われていた。それだけに馬の飼育熱も盛んであり、徳川氏より明治政府へと大きな政変のあった明治元年ですら、亀田村に馬市が開かれている。『慶応三卯年 触書留』によれば、明治元年に例年どおり亀田村で馬市を開催することを触れており、馬を売買したとき、一頭につき売払の者より銀二匁、買受けた者より銀一匁、その外に馬役銀二匁、書賃判銭銀一匁を役銭として納めなければならないことを記している。
 また、『開拓使事業報告 第二編』(勧農の部)によれば、
 
 〔明治三年〕 八月胆振国有珠郡牧馬百六十頭ヲ渡島国亀田郡亀田村大川村両村人民ニ、百頭ヲ同郡七重、軍川両村ニ、百五十頭ヲ神山村ニ斥売ス
 〔五年十月〕七重村ニ於テ洋種馬豢養(カン・やしなう)ノ為メ牧畜修業人齢十六歳以上二十歳以下、身体強壮ノ者二十名ヲ召募ス。又馬三百一頭ヲ管下人民ニ貸与ス
 〔十三年〕 以来函館港ト青森県大澗港ノ間、馬ヲ載ル専業ノ船アリ、往復常ニ絶ヘス。今試ニ函館港輸出ヲ掲ル左ノ如シ

〔輸出馬数〕

 「近年遽(ニワカ)ニ輸出ヲ増スハ、陸奥地方ノ産馬価格非常ニ騰貴ス、因テ投機商等争テ輸出シ、以テ陸奥産ト偽リ、大利ヲ射ルニ原因スト雖モ、亦以テ当道馬種改良ノ著キヲ徴スヘシ」とあることでも知られるように、亀田地域では官、民共に馬の飼育熱は盛んであり、また馬種改良も着々と進められ、本州産の馬となんらひけを取らないまでに改良され、本州と北海道間に馬の運送を専業とする船が絶えず運行されるほどまでになっていたことがわかる。