また、『開拓使事業報告 第二編』(勧農の部)によれば、
〔明治三年〕 八月胆振国有珠郡牧馬百六十頭ヲ渡島国亀田郡亀田村大川村両村人民ニ、百頭ヲ同郡七重、軍川両村ニ、百五十頭ヲ神山村ニ斥売ス
〔五年十月〕七重村ニ於テ洋種馬豢養(カン・やしなう)ノ為メ牧畜修業人齢十六歳以上二十歳以下、身体強壮ノ者二十名ヲ召募ス。又馬三百一頭ヲ管下人民ニ貸与ス
〔十三年〕 以来函館港ト青森県大澗港ノ間、馬ヲ載ル専業ノ船アリ、往復常ニ絶ヘス。今試ニ函館港輸出ヲ掲ル左ノ如シ
〔輸出馬数〕
「近年遽(ニワカ)ニ輸出ヲ増スハ、陸奥地方ノ産馬価格非常ニ騰貴ス、因テ投機商等争テ輸出シ、以テ陸奥産ト偽リ、大利ヲ射ルニ原因スト雖モ、亦以テ当道馬種改良ノ著キヲ徴スヘシ」とあることでも知られるように、亀田地域では官、民共に馬の飼育熱は盛んであり、また馬種改良も着々と進められ、本州産の馬となんらひけを取らないまでに改良され、本州と北海道間に馬の運送を専業とする船が絶えず運行されるほどまでになっていたことがわかる。