函館と天然氷

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 天然氷が一般の人々に使用されるようになったのは江戸時代の末ころからであった。このころの氷は、ボストンアイスカンパニーがはるばるアメリカのボストンから横浜に運んで来たもので、主として医療用に使用されたが値段が高く、ビール箱一つ分が三両もし、普通人にはとても買えるものではなかった。こうした状態を見た三河(愛知県)生まれの製氷家中川嘉兵衛は氷をもっと安く供給できないものか、夏場の飲料用、食品貯蔵用、医療用として用途は多数あるが、高価で利用できず、何とかならないものかと考えた。中川は極めて研究熱心でまず文久元(一八六一)年富士山、同三(一八六三)年諏訪湖、元治元(一八六四)年日光、慶応元(一八六五)年釜石、同二(一八六六)年青森県埋川と何度も氷の製造を試みたが、輸送中に氷解するか、無事目的地に着いても大部分が氷解し、その生産費用さえ手に入らない状況であった。

製氷に付間合並びに氷室見取図 道行政資料課蔵

 一方函館においては慶応年間ころから滞在中の外国人により願乗寺川の氷が切り取られ、貯蔵されていた。『各国人民貸渡地所書類留』(道行政資料課蔵)には「製氷に付間合並びに氷室見取図」が記されており、また『天然氷』(成島嘉一郎)によれば、「慶応年間ブラキストン氏が函館で製氷を試みたが失敗して中止した記録もある」というような状況であった。このようなところに中川嘉兵衛は運よく氷製造の目的で来函したのであるから、外国人の氷製造法からなんらかの知識を得ているであろう。『松川弁之助君事蹟考』によれば、「此川(願乗寺川)筋成りし冬、上品なる凝氷を生じ、西洋人之をきり取、囲ひしを見倣ひ、氷商之を東京に輸送し、函館の一産物と為りし」とある。