明治五年以前は兵備と警察は分離されておらず、明治元年より箱館府兵が治安の任に当り、翌二年八月開拓使函館出張所の設置により函衛隊と改称され、その後さらに明治四年三月から護衛兵と改められたが、いずれもその数は少なく、有事の時には十分な備えとはいえない状況であった。そこで開拓中判官杉浦誠は、明治五年二月函館の警備について建議した。その結果同年六月護衛兵は解散され、代りに開拓使の管下に邏卒(らそつ)と砲卒が置かれることになった。したがって兵備と警察は分離され、邏卒本営が富岡町(現在函館市元町)本願寺内に設置され、西浜町、地蔵町地蔵堂の二か所に分営が置かれた。
明治九年二月の開拓使行政警察規則により、警部長、警部、警部補及び巡査の官名が定められ、警邏係を警察係、邏卒屯所を警察出張所と改称した。しかし、亀田地方ではいまだ警察官は置かれず、わずかに村役人が兼務のかたちで警察業務を行っていたが、その力は非常に弱いものであった。
その後明治十四年九月に至り、函館市若松町に巡査派出所が設置されることになり、以後時々若松町派出所から亀田地区に巡査が巡回して来るようになった。しかし、依然として巡査は常駐しておらず、明治十四年十二月二十八日付の『函館新聞』にはこの状況が次のように記されている。
開拓使録事 ○函館支庁布達第八拾壱号
当庁管下警部所在及び不在の地(治罪法第六十条見合)
左の通に候条、為二心得一此旨布達候事。
明治十四年十二月二十一日
函館支庁開拓大書記官 時 任 為 基
警部不在の地 亀田郡(関係部のみ)亀田村 鍛冶村 神山村 赤川村 石川村 桔梗村