明治初期の消防制度

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 慶応四(明治元)年六月には、亀田村、赤川村、神山村、鍛冶村各村の申し合わせにより、火災や非常事態発生の際には、各村より一五名ずつ合計六〇名の「駈付人足」が出動することを記した請書があり、このころすでに亀田地域の村々が協力し合って駈付人足の制をとっていたことがわかる。
 
       差上申御請書の事
  五稜郭近辺其外出火は勿論、非常の節駈付人足の義、私共村方申合、一村自拾五人づつ都合六拾人差出、尤焚出の義は村役人代宅にて取扱候様可仕、且又右飯米等の義は御取調の上御下渡被成下候旨被仰渡、一同承知奉畏候。
  仍御請書差上申処如件。
     慶応四辰年六月
                         村手代  常 吉 ㊞
                        亀田村
                          年寄  岩 松 ㊞
                        赤川村
                          名主  長太郎 ㊞
                        神山村
                          名主  三之丞 ㊞
 
 このほか函館開拓使出張所でも亀田地域に火災が発生した場合、状況に応じて火消人足を派遣することにしており、『明治二年記載触書 十一月吉辰』によれば、「一、亀田、有川両村出火の節様子次第火消人足差図、時宜に寄、農政掛出張可致事」と記されている。
 その後の十数年間消防制度がどのような変革をして行ったかは明らかではないが、明治十五年二月八日開拓使が廃止され、札幌・函館・根室の三県が置かれることになり、三月函館県が開庁されると同時に函館県警察本部が設置され、従来開拓使の機構の中に属していた消防監督権は警察署に移管されることになった。亀田地域においても明治十六年十月に新築された亀田警察分署で消防業務が警察業務と合わせて行われるようになり、明治十七年七月には分署棟上に火の見所を設置し、半鐘を備え付けた。