亀田川
亀田村の水田はなんといっても、亀田川の水を利用して発展した。
水田が開かれていった場所は、西は亀田本町五稜郭駅付近から昭和、港方面へ、南は富岡から田家方面へ、東は中道、本通り、鮫川方面へ、北は神山、鍛治、赤川、赤川通り、亀田中野、一部は石川を含む地域である。
亀田村内には、亀田川のほか陣川、七五郎沢川、中の川、タタラ沢川、蒜沢川、石川などの小さな川があったが、明治二十二年に函館市では上水道用に笹流ダムを築造して、亀田川の流水を取水した。
昭和三十一年の『亀田土地改良区沿革誌』に「函館市の水道会計は年間純益三、〇〇〇万円が見込まれている。この亀田川流域の水田三五〇町あり、反収で六斗の減収で石当り一万円であるから、年間二、一〇〇万円の損失であり、これは灌漑用水が水道に取水されるので水不足により損害を受けている。」と記録されている。
その後、我田引水のことわざ通り、灌漑期間中は取水の競合が年中行事としてくり返された。
こうした水不足解消のため、明治二十五年に大沼・峠下間に隧道をほりぬいて、暖かい大沼の水を渡島平野の各村に流そうとする大沼疎水計画が立てられ、亀田、七飯、大野、上磯の四か村で大沼疎水組合を結成してこれら地域の水資源を確保しようとしたが、関係村民の同意が得られず、また、約三万一、八〇〇余円の工事費負担の足並みもそろわず、着工不可能になった。
その後、大正十三年、小野総次郎村長以下三三九名で水田面積五八九町歩に毎秒二九・四七二立方尺の灌漑用水を、河川法に基づき亀田川から使用する権利の確認を受けた。
水系別反別および許可水量調査(大正十三年七月三日)
ここで主な用水路について簡単に説明しておくと、
赤川第一幹線 中野ダムと笹流ダムの中間点の亀田川から取水し、赤川小学校前を経て、そこから西側へ曲がり、一部は亀田中野へ注ぐ。本流は亀田支所前を通って、田家方面、昭和、港、亀田本町の雪印乳業のそばの水田を潤していた。
赤川第二幹線 笹流ダムの下流から取水して赤川通りまで来て、そこから富岡一帯の田に水を注いだ。
赤川第三幹線 神山の神社の下から取水して神山、鍛治方面一帯の田を満たした。
赤川第四幹線 現衛生センターの向い側付近から取水して、神山、中道、鍛治、本通り一帯を抜けて現函館市民会館付近の鮫川地区の田に注いだ。
赤川第五幹線 神山橋の上流付近から取水して神山一帯を経て鍛神小学校の前を通り中道へ、一部は鍛治、本通り方面へ流れ、最後は鮫川方面へ流れて行った。結局、赤川第三、第四、第五、神川、七五郎沢川の水は鮫川へ流れ込んでいた。
中の川線 赤川の潜龍寺の西側を流れる川で亀田中野、石川一帯の水田を通って、農協の脇の川(石川)へ流れていく。
石川線 桔梗地区と亀田中野の境にある沢から発して石川を抜け、石川の神社の前を通り、専売公社の裏を通って農協の脇へ出る。
このように充分な灌漑用水に恵まれなかったから、ひとたび日照りが続けば、水不足は深刻なものであった。
亀田村の『農林商工統計綴』における 昭和三年「米」の備考欄に、
「気候不順、用水稍々不足シ、発育遅延シタルモ其ノ後降雨アリ天候亦恢復シ発育普通トナリタレ共病虫害ニ侵蝕セラレタリ。
第二回予想収穫高ヨリ差小減ジタルハ糯米ノ病害多カリシニ依ル。前年ニ比シ減収シタルハ前年非常ナル豊作ナリシモ本年前述事情ニ依リ減収シタリ」とある。
用水不足は慢性的なものであったらしく、同綴の昭和二年の欄にも「……用水稍々不足シタルモ……」とあり、同五年にも「六、七月用水稍々不足シ」と記されている。
昭和十八年のように田植後、ひと月余も降雨がなかった場合には次のような被害を受けた。
水稲の作付面積五〇〇四反のうち、三割以上五割末満減収の田が六二反歩、一割以上三割未満減収が一五〇反、計二一二反歩が被害を受けた。収穫数量にすると五六石、一、四四四円の損害をこうむった。
[亀田周辺地図]