函館市内にバスが走り始めたのは、大正七年松岡善五郎外五名がはじめた旭自動車株式会社のバスである。しかし、このバスは大門と湯川を結ぶ路線だけであった。亀田村にバスを乗り入れたのはそれよりかなりあとの昭和六年である。
当時、弁天町二五番地で運送業を営んでいた高木荘治は、昭和三年に函館駅前から中の橋経由根崎間の運輸を開始した。彼が始めた函館乗合自動車合資会社は、昭和六年二月十三日、函館水電株式会社のバス部門として引きつがれたが、高木はその後昭和六年十二月五日赤川乗合自動車会社を設立、万年橋、赤川水源地間七、二〇〇メートルの定期乗合自動車の運輸事業を始め、二年後の昭和八年十二月、鉄道大臣に五稜郭駅前-大沼公園間、本町-亀田村字谷地間など五系統のバス路線新設を出願した。
しかし、その後、昭和九年に函館大火があったり、ガソリン車の認可抑制政策などではかどらず、昭和十二年十一月六日、出願中の弁天線(亀田村本町十三番地先から函館の台場町一番地先間六、三六〇メートル)など四路線が認可された。しかし昭和十三年二月二日、ガソリン不足のためやむなく新免許路線の事業開始期間伸長を申請し、三月二十二日認可となり休止路線とした。同年四月一日には国家総動員法および陸上交通事業調整法が公布され、五月一日には揮発油および重油販売取締規則施行により切符制によるガソリン消費規制が実施され、同日休止路線中の五稜郭駅前-五稜郭公園前間三、七四〇メートルなど三系統の運転を開始した。