戸井方面は熊谷組が担当し、亀田方面は今井組が請負った。国道五号線と赤川通りをまたぐ地点にはガードを設けるために、五稜郭駅の分岐点から国道五号線を通過し、赤川通りをまたぐ富岡方面にかけては、かなりの土を盛り上げなければならなかった。その土を手に入れるために今井組はかなり苦労したようである。そのため、富岡町に水田と畑を持っていた大渡初太郎(明治二十八年生れ)は土を欲しがっている話を聞き、富岡町の土地一町三反歩を今井組に二、四〇〇円で売却した。
一町三反歩のうち、五反は田、八反は畑であったが、このうち畑の八反歩はその二、三年前までは野原であった。そこを大渡は畑にしたが湿気が多くて、ケラなどの害虫に馬鈴薯によく穴をあけられて売り物にならなくて困っていた。一方田の方は亀田支所方面から流れて来る水が小さな水路を伝わって入り込んでいたが、富岡方面はその水路の終末地域であったので、田に十分な水が入らず、田植えも五月中には全然できず、六月中旬から、七月に入ってしまうこともあったという。(大渡初太郎談)
そういう事情で土地を手放したわけであるが、今井組では戸井線工事の土盛りのためにそこから土を取り、国道の東側つまり昭和、富岡方面の線路用土盛りに使用した。
土は四、五〇人の土方人夫を使ってトロッコで運んだという。作業は主に本州から働きにきていた土方人夫が亀田病院の向い側にあった一棟の飯場に寝泊まりして続けた。
富岡の土地は掘ってゆくうちに赤土、バラス、粘土などが出てきたが、二、三年も掘っているうちに深さ一〇メートルにも達した。こうなると底の方から土を運ぶためにモーターを地上にとりつけ、ウインチでトロッコを引っ張り上げざるを得なかった。そのために中央部に傾斜をつけたトロッコの線路が敷設され、わき水はポンプでくみ上げていた。
この富岡の土をとったあとは、その後、田の捨て水がどんどん流れ込んで、すぐ大きな沼になってしまった。その沼をだれいうともなく「土方沼」と呼んだ。土はここだけでは足りなかったので国道沿いの現昭和湯のうしろからも運んだという。
土方沼跡(現富岡遊園地)
戸井線ガード跡
この場所は今井組の社長と昭和湯経営者である田原繁蔵の父、故田原福丈との話し合いで、昭和湯の後方幅約二三メートル、長さ二五〇メートルにわたって、深さ三ないし四メートルずつけずり取った。それをトロッコに積んで、国道五号線を越えて五稜郭駅寄りに運んだ。はじめは人夫二人で一台のトロッコを押していたが、だんだん傾斜が急になってきたころ、田原繁蔵とその弟の田原繁三郎、山本朝一郎、清川仁太郎たちが馬を連れて工事に参加した。そして一頭の馬で三台のトロッコを引張った。下り勾配になるとひとりでにかぎがはずれ、馬が線路の横にどけると、あとは人夫たちにまかせた。
ここからは一年あまりも土を取ったので、現在でも隣の土地よりかなり低くなっている。
戸井村の工事も岩山のトンネル工事、崖縁の石垣工事などの難工事の連続であったが、昭和十七年、瀬田来までの土木工事は一応完成し、線路も湯川あたりまで敷設された。
戦前は亀田本町の金沢運輸倉庫の近くに鉄道工機部があったので、貨車でそこまでコークスや鋳物を運んだり、赤川飛行場建設の際は、湯川方面の松倉川から砂利を赤川通りのガードまで運んだ。しかし、昭和十八年に至って次第に戦局が悪化し、物資も不足して来たので不急の鉄道として工事は中止された。戸井方面まで基盤工事がほとんど完成し、線路を敷けば汽車が走れるような状態であった。
東五稜郭駅予定地跡(現本通遊園地)
五稜郭駅から東五稜郭までの略図