設立の経緯

508 ~ 510 / 1205ページ
 昭和九年三月函館大火のあと伝染病患者が急激に増加していった。同年三月二十一日の火災から四月十二日までの二十二日間でジフテリア三五名、猩紅熱二九名、腸チフス一二名、合計七七名の患者の発生をみた。
 一方、函館市では山背泊の検疫所や函館病院に隔離収容したが、ほぼ満員の状態であり、以前から移転問題の出ていた中の橋病院も患者で満員となったため、時の坂本市長は、亀田村に伝染病院移転地を求めた。移転先もはじめの五稜郭駅から一〇町離れた箇所という地所から鍛冶村、鍛冶村寄りの富岡、赤川など二転三転した。その後ようやく決りかけた亀田村字赤川通り一六七番地(通称冷水下)の土地七、五〇〇坪の敷地も地主伊藤某の反対にあい、買収不可能になってしまった。新聞に移転先が鍛冶村と報道されるや、亀田村内で反対する人々は村民大会を開き、函館市長、亀田村長、函館市会などに反対陳情書を提出した。反対の理由は、野菜の産出、井戸水などに悪影響が出るということ、五稜郭公園などが汚染されるということであった。しかし、昭和九年六月十六日、函館市会議員協議会で亀田村への移転を承認し、同日の亀田村会議員協議会でも、関係道路の修繕、亀田村の患者も収容するという条件をつけて移転を認めた。
 一方、患者の数も六月十八日までに三〇〇名を突破するというさわぎであった。特に腸チフスが猛威をふるっていた。時の亀田村長中島有郷も敷地の選定に種々努力を重ねた結果、赤川村の村会議員工藤一の所有地八、五〇〇坪と決定し、六月三十日正式に調印した。場所は赤川通り二五〇番地であった。
 昭和九年十月に工事に着工し、約二か年かかって昭和十一年十一月に竣工した。函館市立康生病院と称したこの病舎の総建坪は三六一坪五合、収容人員一一三名で本館、病棟、汚物焼却場、自動車車庫、職員住宅、雇人住宅、看護婦寄宿舎などがあり、浄水装置を施した近代的施設を誇っていた。総工費は約一二万円であった。
 翌十二年五月には同病院内に赤川診療所を開設し、一般の診療にも応じた。特に場所的に赤川村民が診療を受けたが、診療代、薬代は低廉であった。当時の諸料金は次のとおりである。
 
  診察料 五〇銭  死体施導料 三円  水薬、散薬、丸薬各一日分 二五銭  ただし容器は実費を徴収する。
  外用薬一剤 三〇銭ないし五〇銭 ただし容器は実費を徴収する。
  頓服薬一回分 二〇銭 一般手術および処置料一回五〇銭ないし五〇円