本道では歴史の古い亀田市ではあるが、文化財については、特別関心を示さないまま過ごしていた。五稜郭は函館市に所属したので、その他のものは比較的認識されなかった。
サイベ沢、四稜郭、東照宮跡などのことも、一部の人によってその重要性を指摘されるにとどまっていた。
大正初年の『亀田村郷土誌』には、四稜郭について記述しているが、「戊辰の役賊軍砲塁跡」あるいは「旧台場」と称していた。後日、その由来を記し、図面も添え、「昭和九年一月二十二日文部省告示第十六号を以て史蹟に指定せらる」と補筆している。
昭和十年、鍛神小学校訓導服部安正が、『四稜郭史』を発表するにおよんで、村民に貴重な参考文献として喜ばれ、文化財への認識が高まってきた。
しかし、戦争が長期化するにつれ、食糧増産などの必要もあって、四稜郭は土塁の下まで畑として耕作され、史跡として顧みるいとまもない状態が続いた。
その後、神山部落の人たちによって、「神山史跡保存会」が発足して、その維持保護に当り、現在に至っている。
昭和三十五年八月、函館市文化会が、四稜郭の説明板を寄贈して、その由来を明らかにした。
サイベ沢は広大な耕地であり、耕作の畑からは土器が続出していたが、特別に文化財としての価値あるいは関心のない期間が長く続いた。(サイベ沢遺跡については第一章第二節「サイベ沢の縄文人」同第三節「西桔梗の遺跡」を参照)
戦後二十四年に至り、サイベ沢遺跡の調査を実施するようになって、一躍有名になり、村民の認識を深めることになった。
要するに亀田市における文化財尊重の気運は、昭和に至ってようやく軌道に乗ったといえるが、それは亀田市のみならず全道的傾向であったと思う。