亀田八幡宮
『亀田八幡宮紀元書』の最初に「亀田郷惣鎮守、正八幡宮建立、慶長八年癸卯十月、大檀那蛎崎甚五郎源盛広公」と記され、その起源は遠く、祭神は誉田別尊である。
明治五年、菊池重賢の「巡回御用神社取調」の際は、亀田村の八幡宮として、詳細に調査が行われた。
『亀田村郷土誌』(大正初期)には「明徳元年に函館の館主河野加賀守森幸が越前国敦賀気比神社より分霊を奉じて千代ケ岱に勧請し鎮守に祀り、後、文禄三年松前家の祈願所として尊崇厚く、慶長、延宝、享保、寛保、明和、安永、天明等に社の再建があり、社前の花崗岩の大島居は松前奉行の経営奉納によるものである。明治九年郷社となり、同十五年一品熾仁親王殿下御染筆の額面を賜った。本社は八幡の森と称する古木亭々たる森林にあり、昼尚小暗く荘厳の気自ら迫り神々しさはことばに尽くせない。毎年九月十五日、祭礼を行う。遠近の参詣者数を知らず盛大である。」と記されている。
境内も広く、『亀田八幡宮紀元書』には「東百二十間、西九十七間、南百二十五間、北百八間」とあり、宮司藤山氏は代々この社を守っている。
明治三十二年函館区との合併後も、亀田村民は氏子として、函館市と一体となり、この神社を尊崇している。こんもりと茂っていた森も今はしのぶよしもないが、亀田郷の鎮守としての重みは変らず、また宮司の藤山直弘は亀田市における桔梗町の比遅理神社、鍛治町の稲荷神社、神山町の稲荷神社、赤川町の三嶋神社、石川町の川上神社などの宮司も兼ねている。