宝皇寺
創立は安政六年四月、開基は厳如上人、はじめは「東本願寺別院広大寺」と称し、翌万延元年五月、箱館奉行小出大和守の差図により「東本願寺別院宝皇寺」と改称した。
最初は本山の別院であったが、明治十一年一月、寺院明細改正に際し、一般末寺に降格し、末寺の僧を住職とした。
前記のように安政六年、本願寺二十一世大谷光勝法主が使僧斉聖寺をもって箱館奉行堀織部正に出願し、国恩に報いるため自費をもって能登・越中の民を数十戸移住させ、桔梗野を開拓して、「東本願寺開発場桔梗野」と称した。
農民教育のため一宇を創立して、僧数人を置き農民の監督および指導を行ったことが、宝皇寺誕生のゆえんである。
仮本堂は万延元年七月、桔梗三八九番地に建立された。面積三〇坪と記されている。
その後移民が増加して道場が狭くなったので、当時の住職間瀬徳温の所有地一、二〇〇坪を寄付し転住を願い、明治十五年五月六日、許可を得て現在の位置(桔梗町二二一番地)に移転した。
同三十五年十二月九日、住職間瀬義雄の時、堂宇を再築したが、昭和二十二年二月、火災のため全焼し、古文書など重要なもの全部が消滅したことはまことに惜しいことである。
現在の堂宇は昭和四十七年に完成した。
住職は間瀬康雄である。